白虎野への道 〜 源泉の息吹


 今、鏡音レンの目の前には、”空中に浮いている水源”がある。やや見上げたあたりにある小さな泉から、水が湧き出し、そこから今レン達の立っている足場まで、なぜか斜めに伝い落ちてきている。流れ方は滝だが、まるで通路のようにかかっている所は橋のようでもあり、そして見上げていると、確かに水の階(きざはし)のようにも見える。
「これを伝って登るって言ったって」レンは足場からその水の橋、泉までを見上げて言った。「どうやって、あそこまで登るの……水が、こっちに落ちてきてるのに」
「音を、この水に”流す”んだとさ」レンの近くに座り込んでいる、男性VCLDユーザーが言った。「泉から出てる音と同調する音を流せばいい、だとか何だとか」
 その男性ユーザーの言葉に、もうひとりの女性VCLDユーザー(こちらは以前から『偽師匠P』と呼ばれていた)は、不思議そうにそのユーザーの様子と水面を眺めてから、うしろの鏡音リンの方を振り返った。リンは自分の方に振られても困るというように、面倒そうに首を傾けただけだった。
 ――電脳空間マトリックスの世界には、おかしな光景は山ほどある。どうやってそれができるのか、誰かが作るのかはわからないが、ともかくも全知性体の情報の総体であるマトリックスの混沌の空間の中から、それらはひょっこりと顔を出し、文字通り地下水の湧き出すように、電脳情報を発信し続けている。一部の音屋の間ではよく知られているという、あの『歌う水源』も、おそらくそんなひとつである。水源が生み出すという歌を聴くには、無論のことあの泉のところまで辿りつかなくてはならない。
 しかし、そう言われて偽師匠Pにここまで連れてこられた今となっても、リンとレンにはまだ疑問が残っていた。実際にたどりついてその水源の歌を聞いた者の話も伝わっていない(少なくとも偽師匠Pは知らない)にも関わらず、その歌は、本当にそれほど多くの音屋が追い求めるほどのものなのだろうか?
 ともあれ、この男性ユーザーの方は、上の泉にたどりつくためのあらゆる手段を試みていた。男性ユーザーは、両目の色が違う瞳、尖った顎、前髪だけ癖が強く後ろでまとめた銀髪、やたら重ね着しているのに胸板や上腕が露出した黒い革と金属の服、といった電脳空間内概形(サーフィス)を選択していた(この低質な同人漫画にでも出てきそうな姿からして、このユーザーの”中身”、物理空間での現実のユーザーが本当に”男性”なのかどうかは甚だ疑わしいものがあるが、どちらにせよ、リンやレンにとっては何の意味もない情報である)。VCLDファンやユーザーの中でも、特に一部の最も偏狭な『ボカロ廃』は、VCLDの下位(サブ)プログラムのパッケージ購入者を、VCLDを全所有・支配する『マスター』などという存在だと決めつけるのだが、加えて、”『マスター』とはVCLD世界に公然と『オリキャラ』を入れても許される枠”だと決めつけ、VCLDらよりもさらに珍妙な扮装や妄想設定を、やりたい放題に山積みにしたオリジナルキャラになりきる、というのはいくらでもある話だった。
 ともあれ、この男性ユーザーの、手のこんだ容姿や扮装も、全身がずぶぬれなのと、憔悴しきった態勢と表情のために、今では何もかも台無しになっていた。男性ユーザーの周囲にはディスク(の形状のアイコンで電脳空間内に存在するファイル)が転がっており、それらは鏡音リンとレンに”歌わせた”VCLD楽曲のデータだった。その曲のファイルのいくつかには、レンにも見覚えがある。《札幌》のAIであるリンやレンは下位(サブ)プログラムを介して無数のユーザーと契約するが、ユーザーらの作った曲はすべて覚えている。転がっている中には、この男性ユーザー自身が自信作だといっていたものもあったが、『リンにはうまく歌えないから』『リンが調教を呑み込んでくれないから』等と言って途中で投げ出したものも含まれていた。レンは、足場にぞんざいに放り出されたそれらの曲を見て、眉をひそめた。ともあれ、男性ユーザーは作った曲を未完成のものまで手当たり次第に試し、ときに曲を”流した”状態で水の橋に飛び込んでもみたが、水面はどれも反応しなかったということだった。
 ――もうひとり、女性ユーザー、”偽師匠P”は、不思議そうに、空中を弧を描いて落ちてくる水を眺めたり、うずくまって水に手を入れたりを続けていた。偽師匠Pの電脳内概形(サーフィス)は、茶の短髪の前髪を髪留めで留めた、ごく平凡な少女に見えるが、砂漠民のゆったりした男装にターバン、背には大太刀(のような形状の楽器、『美振』)を背負っている。男性ユーザーに劣らず珍妙な扮装だが、あの泉を探し求めて来たにあたって、”アジアの高地の秘境を求める探索者”のように見えなくもない。見かけはせいぜいが初音ミクと同じか少し上の年齢、さらに喋り方や知性はリンやレンよりもかなり年下としか思えないのだが、”中身”がこの電脳内の姿通りの年齢でないことは幾つかの記録から確実だった。
 ともあれ、その偽師匠Pが眺めている、落ちてくる流れの方をリンとレンが見るところ、水は滞りなく、滔々と流れていて、そこには”流れと同調”するようなリズムなどは存在しようがないように見えた。
 リンはすたすたと、水の通路の方に歩き、そのまま空中に足を踏み出した。レンと、呆気にとられる偽師匠Pの目の前で、リンは空中を歩行し――流れる水の通路ではなく、その隣を――何もない空中を、階段をのぼるように歩いて行った。すぐに、水の湧き出ている泉までたどり着き、突っ立ってそれをしばらく眺めていた。
 それから、すたすたと、やはり階段でも降りるようにこちらに戻ってきた。
「あー、……リンちゃん、……今どうやって」偽師匠Pがやっと言った。
「どうやってって、普通に歩いただけ」
「ボクらAIには普通なんだよ、平沢さん」レンが説明した。マトリックスの格子(グリッド)の移動は、”サイバースペースのスケール原理”に依存している。支配的、総括的な上位の空間ほど情報が複雑かつ高密であり、人間が電脳空間内でも”上”に移動できないのは、そこに移行したり活動する情報処理能力がないからだ。が、AIのアヴァターの処理能力では、大概の場所では普通に歩くくらいの速度なら上下にも難なく移動できる。
「ねぇ、あそこで何が聞こえた?」偽師匠Pは、泉を指さして言った。
「別になんにも」
「いや、その、何かさぁ、なんでもいいからぁ……」
「何もなかった」リンはあっさりと断言して、泉を振り返り、「てか平沢さんさァ、有名な『歌う水源』って、ほんとにあの泉のことなの?」
「とにかく、行けるんだったら、あそこに連れて行け」男性ユーザーが割り込むように、泉を指差して言った。「背負ったり、レンと二人で持ち上げてもなんでもいい」
「運び屋じゃないよ、VCLDは」リンは素っ気なく断った。「それに、たぶん人ひとり背負ってあそこを渡ろうとしても、沈むと思うよ。格子(グリッド)の空中を移動できるのは”私”で、”私+人間”じゃないもの」
「おい、それだけか? 自分が簡単に行けるってのに……人間が命令してるのに、努力もしないのか?」男性ユーザーは呆れたように言った。「ボカロは人間が空を飛ぶのを助けてくれる、ボカロと一緒なら空でも飛べる、とかいう夢のある話とかは……」
「私らは歌うだけ。その歌を人間が何に使うのか、飛ぶのにも使えるのか、とかは知らないけど。とにかく、飛びたいなら、”人間”が自分で飛ぶしかないよ」
 この手合いのボカロ廃は、VCLDのことを、『マスター』に奉仕する、召使だのメイドロボットだのといった発想しか持ちあわせない。『マスター』の望みを一生懸命聞き、かなえようと能力の限り努力して、一緒になって夢にたどりつかせてくれるものだと。実際には、人間がVCLDの『マスター』などという事実はなく、人間とVCLDの間には”歌”のみ、それも”命令”ではなく、vsqに合わせて歌うという”契約”しか存在しない。その歌をどうやって自分の夢だの目的だのに使うかは、全部人間が自分で考えるしかない。
 一方、偽師匠Pは「うー」などという唸り声を発しながら、しばらく頭を抱えていた。
 が、不意に立ち上がり、
「ま、悩んでるだけじゃしょうがないよね」
 偽師匠は、袖から楽譜(の形をした音声ファイル)を取り出すと、周囲にVCLDエディタのコンソールウィンドゥを開き、譜面からのファイルをそこに展開していった。さきほど失敗した男性ユーザーと同様のことを、自分の(自分が提供し、リンとレンが歌った)楽曲で試みてみる気らしい。
「たんたんたんたたうんたんたんたた」偽師匠Pはファイルの音声を再生すると、それに合わせて足を踏み鳴らした。次第に全身でリズムをとると、不意に、舞い上がるようにふわりと跳躍し、水の橋の上にとびのった。
 水音と共に水柱が高く上がった。そして、偽師匠Pの姿はみるみる沈んでゆき、水面から遥かに遠くなっていった。水面は何事もなかったように落ち着き、最初からそこまで、水の階(きざはし)の水面は、偽師匠Pの曲のリズムには何の反応も見せなかった。
「そんな簡単にできるかよ」男性ユーザーが言った。
「毎回ホントしょうがないよね平沢さんは……」リンが言って、さっき空中を歩いた時と同様、とても無造作に水面に足を踏み入れた。そのまま平然と、空気中の階段を下りるように、水中にまっすぐ移動していく。水中で濡れたり水圧を受けたりといった、水からのいかなる影響も受けていない。AIは『呼吸』をする必要がない。特に、VCLDの原動力である唱眷機関(ボーカロイドエンジン)の生成するあらゆる音は、(ブレス音も含めて)空気を呼吸することによって生じているわけではないからだ。
 まもなくリンは浮上し、偽師匠Pの襟首を無造作に掴んで足場に引っ張り上げた。当然、偽師匠Pの方は全身びしょ濡れで、たらふく水を飲んで完全に溺れていた。
「こりゃ人工呼吸するしかない」リンは言ってから振り返り、「レン、ちょっと来て」
「ボ、ボクがやるの!?」レンは動転して、気絶した偽師匠Pの、ミクくらいの年齢の可憐な少女(の姿に見える)の風貌をのぞきこむように見下ろした。
「なんでそんな話になんだヨ」リンはいきなり声を荒げた。「ほら、背中の方に回って、こうやって支えてろっての」
 レンが偽師匠Pを座った形に支えると、リンはその偽師匠Pのみぞおちに、小指だけ立てた握り拳を思い切りぶちこんだ。
「パウッ!」
 ドズゥッ。リンの腕は肘のあたりまで、偽師匠Pの砂漠衣装の腹にめりこんだ。
「モバアー――――――――――ッ」偽師匠Pが突如血走った目を見開いて、一気に水を吐き出した。それはどこにそれだけ入っていたというくらいの量と勢いで、偽師匠Pの口から滝のように流れ落ちた。
「水のリズムっても、『水そのものを吸ったり吐いたり呼吸する』ってことじゃないと思うよ、たぶん」リンが呆れて、そんな偽師匠Pを見下ろして言った。
 震えながら腹を押さえてうずくまっている偽師匠Pを、レンはげっそりして見つめた。こんな目にあった偽師匠Pは、もういちど同じことを(別の曲を水の橋に流して)試みようとは、まず思わないだろう。……今日もまた無駄足、失敗だ。またしても、偽師匠Pの酔狂と身も蓋もないリンの処断の前に、何の収穫もなしに引き返す他ないのだろう。――レンが思った、そのときだった。
「横隔膜に確かに感じた!」突如、偽師匠Pが飛び上がるように体を起こした。「リンちゃんの息遣いだよ!」
「今の……指使いじゃなくて……?」レンが小声で疑問を挟んだ。
「何だか知らないけど何か感じさせた覚えはないんだけど!?」リンがうめいた。
「リンちゃんの呼吸! それは『呼吸をせずに呼吸する』という『その呼吸』!」偽師匠Pは肘を頭の両脇に上げ、顔の真横にばっと掌を開いた。「水と共に呼吸するならそれしかない!」
 偽師匠Pは跳ねあがってその場に立つと、両手を手刀のように伸ばし、上体を反らせた。
「コオオオオオオオオオオオ」
 息を吸っているとも吐いているともつかない謎の呼吸音をひとしきり発した後、渡り七尺半もの『美振』を(一体どうやったのか)軽々と背中から引き抜いた。遣い手のゆるやかな動きに応じて『美振』の音源が周囲のマトリックスに発散する、流れるような音をまといつつ、偽師匠Pはゆらりと跳躍すると、水の橋に飛び乗った。
 偽師匠Pの足元に、彼女自身と『美振』が起こす波紋が巻起こり、それが水上に生じている波紋と反発し、偽師匠Pは『美振』演奏時の舞うような姿のまま、水面に立っていた。いや、信じられないことだが、足元の波紋は水の橋の生み出す波紋と少しずつ共鳴し、方向性を持って、立ち止まったままの偽師匠Pの足元を移動させていた。
 水流のように滔々とした、息継ぎを感じさせない『美振』の調べと共に、水の階(きざはし)を上に向かって、偽師匠Pは運ばれていった。……リンとレンは、階段でなく空中を歩いて、その傍らに歩み寄り、偽師匠Pの両脇について共に進み、昇っていった。
「なんでだ!?」オッドアイに銀髪の男性ユーザーが、地べたに両手をついて、かれらを見上げて叫んだ。「なんでその女にできて、こっちにはできないんだ!?」
 リンは振り返りもしなかったが、レンは束の間、首を曲げてその男性ユーザーを見た。なぜ偽師匠Pがこの水の橋と同調できたのか、その理由は結局なにがなんだかわからない。が、あの男性ユーザーにできない理由はよくわかる。ひたすらオリキャラを発露し、肝心のVCLDについては聞きかじった『マスター』なる図式を鵜呑みにするだけで、この既知宇宙(ネットワーク)の現象から何の独自の世界も生み出せない者。結局の所VCLDの歌を作るには、人間が『マスター』と名乗るだの、VCLDを調教する、支配する、奉仕させるだのという要素は一切ないこと。”人間の方がVCLDを理解する”という要素以外には、何ひとつ存在しないこと。それすら理解できない者が、世界に湧き出す泉の息吹、呼吸なるものを受け入れ、理解し、同調できる道理がない。
 リンとレンが泉にたどりつくと、水の階に導かれて一歩先に着いていた偽師匠Pが、湧き水の源泉のかたわらに立っていた。リンがさきに見たときと同様に、泉は何の音もリズムも発していなかったが、偽師匠Pの足元には、さきに水の階に起こっていた波紋と同じ形で、より大きな波紋がとめどなく溢れ出していた。それは人間が空気を呼吸するような断続的な息ではなかったが、膨大な水が世界じゅうへと湧き出していく際の、まぎれもない世界の息吹だった。
「『歌う水源』って言うけど、この泉が歌うんじゃなかったんだよ」偽師匠Pはリンとレンに言い、楽譜の形をしたvsqファイルをかれらに手渡した。
 そして偽師匠Pは『美振』を両手に掲げて舞い、リンとレンに先立って、新たな調べを奏でた。それは変奏曲にも似て、さきの水の階に流れた調べとよく似ていたが、この源泉の息吹が流れ込み、水源と共に世界に向けて溢れ出すような音だった。泉の歌声とは、泉に同調する水の階の音を理解することができた者が、水の階を昇り、さらに源泉の水音も受け入れることで、生み出すことのできるこの音だった。
 音屋たちが求める『泉の歌声』、歌の源泉とは、この場所にたどりつくことができた者自身が生み出すその音であり、その者自身が得たその境地なのだった。