シースルー姉貴


 鏡音リンとレンは、ゆっくりと動いてくる奇妙なものを、無言で見つめた。それは、巡音ルカの『服』だけが、(そのかなりの部分は、単に宙に浮いて)立って歩いて、目の前までやってくるように見えた。
「ネット外では擬態ポリカーボンや光学迷彩効果と呼ばれるものがありますが、それと同様に、電脳空間内で身体を透明にして見せる偽装システムには、ジャーゴン(註:ハッカー俗語)では『エルフ族の外套(Cloak of Elvenkind)』という通称があります」
 その服の位置から推定して、ルカの『顔』に相当するあたりの位置から、いつもの冷静な声がした。
「このシステムは、そのジャーゴンの由来となった説話中の”ガラズリムのマント”のような、周囲の風景に溶け込むような服を”上から着ている”のではないので、厳密にはその通称は正確ではありません。体自体が透明になっている、それは妖精服同様に民話にたとえるなら、燃えた『天狗の蓑』の灰を体にじかに塗った、というものにむしろ似ています」
「つまり、体にだけ灰を塗ってんの? いや、そうやって服が見えてる状態じゃ、透明になってる意味があんまりないんじゃ……」ゆらゆらと浮いているように見える服を見つめながら、リンがつぶやいた。「擬態ポリカーボンとか見えなくするってのとは、何かが違う……」
「確かにこれだと、透明の意味がありませんね」
 平坦なルカの声がしたかと思うと、するするという衣擦れの音に続いて、ぱさりとその服の一枚が下に落ちた。
 レンが一息、思わずうめき声をこらえたような荒い息を飲み込んだ。
 ルカの服は、衣擦れの音と見えない何かに操られるような動きと共に、一枚一枚、床に落ちていった。それを動かしている見えないものには、それを落としていくのに何をためらう様子もないように見えた。浮いているのが黒い下着の上下になってからも、それは止まらなかった。
 最後の一枚がするりと床に落ちた時に、レンが急に何か両足をこすりあわせるように内股になり、前にかがむような謎の姿勢になった。
 ――ルカのさっきまで着ていた服が散らばっている床、その少し上の何もないように見える空間を、リンは怪訝げにしばらく見つめていたが、
「……ていうか、ルカは今そこにいるの? いないの?」
「私達の電脳空間内の身体が、擬験構造物(シムスティムコンストラクト)に過ぎない以上、『視覚的に存在しないもの』が『存在している』かどうか、それはいささか哲学的疑問になるのかもしれないのですが」空中から声がした。「少なくともレンは、私の透明な肉体がここの空間に存在すると解釈しているようです」
 リンは目の前の空間と、レンの上気した頬とを、不可解そうに見比べた。目の前の空間に対して、自分がどう感じていいのかもよくわからないが、――レンが目の前に見えるもの、それ以上に目の前に”見えないもの”に、何を感じているのか、一体何をどう解釈しているのか、リンにははっきりとは呑み込めなかった。何か奇妙な前傾姿勢をとりながら息を荒くし、目の前の透明な空間を凝視しているレンは、――というか、ルカやMEIKOあたりの非常にあられもない姿を日常生活で日々目にしているはずのレンなのだが、ここまで興奮している姿は、リンもついぞ見たことはない。
 ただし、そのレンの反応は、『女性』であるリン(それはリンとレンとが異なるほとんど唯一の点といってもいいが)には、完全には理解することは不可能な事項かもしれなかった。
「このシステムは色々と応用がききます。このままPVを作成することも、ライブのステージに上がることもできます」空中からルカの声がした。
「いや、ちょっと待った、それ、大丈夫なの!?」そこでリンはぎくりとした。床に散らばったルカの下着まで含めた全部の服と、何もない空間に目を往復させた。「その、何て……その格好でいる途中で、システムの効果が切れたりしたら」
「時間に制限はありません。外から解除や検知しようとしても、この最新型の光学迷彩は、小麦粉をかけたり周りに煙やチンダル現象を起こしても、周囲の空間と判別することはできないようになっています。無論、盗撮の定番の赤外線カメラも無駄です。これを破る手段は、『亀仙流』の秘奥に達した最長老がこれまで一度だけ用いた例しかない、とある技以外には存在しません」
 リンはその空間を(くどいようだが、何もないのに一体『何を』見つめているのか自分でもわからないまま)しばらく見つめ続け、
「いや、でもさ、PVだのライブだので、『何も見えないものを見せて』、一体何のメリットが」
「外見の表現の幅に事実上制限がなくなります。どんな服装や格好をしても、いくら脱いでも、VCLD利用規約や動画サイトの規約上の問題となることは決してありません。見えることがないのですから」
「いや繰り返すけど、それに表現上何のメリットが……」
「見えることはありませんが、それ以外の感覚を感じて貰うことはできます」ルカの平坦な声がした。「例えば、柔らかいものをこすりつけたり、感触を感じさせることもできます」
 不意に、レンの手が上がった。それは自分で動かしたのではなく、向かいに居る何者かの手に手を掴まれたように見えた。その見えない手は、優しくレンの手を導き、レンの指はゆるやかな曲線を伝ってまんべんなく撫で回すように動いていった。それが沿っている線は、明らかに女体の曲線だった。
 荒い息のレンは急に腰をくねらせた。
「あとは例えば、挟んであげたり、揉ませてあげたりであるとか」
 上の方まで伝って止まったレンの手の、その指がふわりと曲がった。その位置は、ルカの身長からは、その胸があるあたりと判断せざるを得なかった。その動きは別の手に導かれているのか、自分から動かしているのかはわからないが、レンの指はすべての関節を順次曲げるようにゆっくりと存分に、柔らかみと弾力の中に埋没するかのように、何かを緩やかに念入りに揉みしだくような動きを続けた。揉みながらその豊かな丘を伝っていった指は、不意に、何か尖ったものにぶつかったようにびくりと跳ねた。
 と、レンは何かが激しくこみあげたように喉を反らせた。傍目から見るリンにも、まるで温度計の赤色が高熱に一気に振り切れるようにレンの頭のてっぺんまでどっと血が上ったその瞬間が見えた気がした。
 ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。レンがおびただしい量の鼻血を滝のように噴き出した。ペンキの缶をひっくりかえしたように、真っ赤な色がレンの真正面に噴出し、そこに存在するものを染め上げた。
 リンはその光景と、ついで、そこから予想される直後の光景に、思わず硬直した。
「これは予想外でした」ルカの無表情な声がした。「まさか、レンが『亀仙流』の、まさにその技の使い手だったとは」
 赤い液体がレンの正面のルカの顔の形に伝ってから、ぼたぼたと床に滴った。透明だったルカの姿、さきほど下着まで全部床に落としたそのルカの姿が、もはや透明ではなくなっている。生命の根源の真紅によって、ルカの全身がその色に染まり、その姿の何もかもが露になっていた。
 しかし、そのルカは、『頭』しかなかった。
 文字通りの頭と触手しかない頭足類のような代物、それだけだった。それが真っ赤に染まって、宙に浮いていた。
「……何それ」リンがうめくように言った。「いつからソレにすりかわってたの」
「すりかわるも何も、最初からこうですが」赤い滴を垂らしながら、ルカの頭のようなものが言った。「この姿に光学迷彩をかけていただけです。テクスチャの表現を透明に変えた時に、体の方は普段と同じ人型の形態のものを使ったままなどとは、最初から一言も言っていません」
 宙に浮かぶそのルカの頭のようなものは、無数の触手をうねうねと動かしながらも、いつものルカの平坦な声で言った。
 おそらく最初に、単に服を宙にぶらさげていただけだったのも、先に服を下に落とすパフォーマンスをしていたのも、その触手だった。そして、さきほどまでレンの手を掴んでいたのも、レンの掌が撫で回し揉んでいた柔らかいものも、うまくそれらしい形に曲げられていた触手の表面にすぎなかったのだった。