トレードマークストラテジーII

「『商標』とは何か説明するとき、今なら『トレードマーク』って訳語の方や、『ブランド』がかえって耳慣れてるし、皆意味もわかってるかもしれないわね。特定の語やマークで、何かの商品や業務を指す目印として知られているもの、あるいは、今後そうやって売り出すためのもの。例えば、このマーク」
 《秋葉原》の女性マネージャーは、皆もよく見慣れた、音叉を3つ重ねて輪で囲んだマークを指差し、
「このマークは《浜松》の社を示すものとして長い間知られてるわ。音叉が輪に触れていれば《磐田》の方のマークだけど。こういうマークを『商標登録』すると、基本的に登録した個人や法人だけが使えるから、長年《浜松》だけがこのマークを商品に貼ったり、業務に関係した出来事で使い続けることで、これが《浜松》の製品や業務を示すものとして、長年信用が蓄積しているわけ。その蓄積のおかげで、このマークが貼ってあるものは、《浜松》の商品や業務に関連するものだって誰でもわかるし、その製品やサービスの質が高いことも想像できるわけ。商標のおかげで、消費者を安心させることも、高級品として高く売ることもできる。……こういうのを目指して、これから何かトレードマークを作って商標登録して、これからの活動で長年かけて信用を蓄積していく、というのは重要よ」
「多田さん」鏡音リンが、マネージャーに尋ねた。「私達にもそんなのがあんの?」
「VCLDの『名前』、それを表す文字列とかは、すでに《札幌》や他の社で幾つか商標登録しているわね」マネージャーが答えた。
「じゃ、当面は新しく考えたりする心配はないってこと……」鏡音レンが言った。



「その点ですが」巡音ルカが口を挟んだ。「多田さんによると、今はまだ文字、図形、記号や立体形状しか商標として登録できませんが、別の国家によっては既に、『音』や『匂い』も登録できる法制を選択していることがあります。つまり、それらの国に進出した場合や、将来その法制が導入された場合を考えて、あらかじめ、『音声』や『匂い』でも、私達のトレードマークとなるようなものを今から考え、用意しておくのは、無駄ではないということです」
「名前の文字列の他に、誰でも、この音を聞いたら初音ミク! この匂いなら初音ミク! を思い出すとかいうやつを作っておくってことね。特に『音声』は私達VCLDには重要だわ」MEIKOが言って、ファイルを二つ取り出した。「てなわけで、私とルカで考えて、まずはミクのやつを作ってみたのよ」
 片方はディスク状で『初音ミクの音』、もう片方はビニール袋に『初音ミクの匂い』と書いてある。リンとレンは、不思議なものを見るようにその二つのファイルを見つめた。
「『音』はやっぱり、おねぇちゃんのVCLDライブラリの声紋だとか?」リンがディスクを覗き込んで言った。
「声紋そのものじゃ駄目よ。今まで『音声』の商標登録を認めている国では、”楽譜”や”音声データ”の提出で行っているわ。つまり、最低限それくらいの一連の音のつながりや言葉が要るでしょうね」マネージャーが言った。
「まあ、それは仕方ないから、ある程度の有名なフレーズを選んで”音声データ”を作ってみたわ」MEIKOがけだるげに言った。
 リンがそのディスクを自分の耳のインカムのスロットに挿入し、その音声ファイルを試聴した。
「な、なんじゃこりゃああああああああああ!!」
 直後、リンは絶叫した。
「これ、あの、トレードマークどころか、その、とても直接的に言えやしないような言葉じゃない!」
「間接的に言うと、ミクの声が男性の肉体のある部分を示す語をひそやかに妖しくささやいているというところの音声です」ルカがマネージャーに説明した。「MEIKO姉さんによると、その言葉は、『初音ミク』ライブラリを購入した大半の男性ファンが、音楽の能力の有無にかかわらず、”必ず一度かそれ以上は発声させてみる言葉”に違いないとのことです。すなわち、ミクの声として最も多く発声される、最も代表的な音ではないかと思われたので選択しました」
「公の秩序や善良の風俗を害するおそれのある商標は登録できないわよ」マネージャーが言った。
公序良俗以前の問題だよ! なんてものをトレードマークにしようとしてんだ!」リンが絶叫した。「コレが長年使われ続けてブランド化したらどうすんだヨ! 『初音ミク』じゃなくて『×××のおねぇちゃん』とかいうあだ名で呼ばれるようにでもなったらどうすんだヨ!」
「って、さっき直接的に言えやしないって、今思いっきり叫んでるじゃないの」MEIKOが疲れたように言った。



 ……他の全員のその騒ぎをよそに、鏡音レンは、だいぶ離れたところに放置されたままになっている、もう一つのファイルに近づいた。
 『初音ミクの匂い』と書かれたそのビニール袋をじっと見つめた後、レンは、ごくりと喉を鳴らした。
 あたりを見回し、依然として女性陣が見ていないのを確認してから、レンは『初音ミクの匂い』の袋に手を伸ばした。開けたビニール袋に鼻を突っ込むように、思い切りその中身を吸い込んだ。
「ゴホッ……」
 レンは喉を鳴らし、よろめいたが、そのまま膝から倒れこんだ。レンは胸を押さえて咳き込みながら、地面に転がるように悶絶を続けた。
 レンの激しい苦悶の声に、全員がぎょっとして振り返った。皆、咳き込むレンとビニール袋を認めたが、それでも何が起こったのかはにわかには理解できなかった。リンとマネージャーが思わずレンに近寄ろうとしたが、それをMEIKOが手で制した。
「なんか、前にもこんなことがあったような気が……いや、たぶんたいしたことはないわ。レンは鼻がちょっと敏感なだけだから」
 MEIKOがビニール袋を拾い上げ、レンと見比べて言った。
「それにしても、なんで『ネギ汁の匂い』なんてものを思いっきり吸い込もうとしたのかしら……」