霧の中の秘密の近道


「あのさ、LEON父さんから聞いてるよね」鏡音レンは、小声でSONIKAにささやいた。「リンには、運転はさせるなって……」
 霧の立ち込める薄暮のロンドンの車道の上、黒光りする車体を挟んで、レンの反対側に立っていたSONIKAは、そのレンの声に振り向いた。
「聞いたことないわよ、そんなの。ていうか、――VCLD一族のその手のへんてこな事情って、リンにまで何かあんの?」SONIKAは、道路の反対側で街路に並ぶ店を眺めているリンに目をやると、眉をひそめた。「私が聞いたことあるのは、極東の日本語VOCALOIDの中では、リンが一番まともな子、って話だけど?」
「それはどうだか……わかんない」レンは考えながら、「たぶん、日本語VCLDの中で一番普通なのは、リンじゃなくてGUMIだよ」
「あの女についてだけは却下するわ」SONIKAはレンを半分さえぎるように、即座に答えた。SONIKAがなぜGUMIをそれほどまでに敵対視するのか、それは両方のデビュー以来、誰もわかっていない謎だった。
「――ともかくも。なんでロンドンをリンに運転させる必要があんのよ」VOCALOID "ZGV5" SONIKAの声は、あまり親交のない、しかし一族の遠縁の少年に対するにはとげとげしすぎるように聞こえる、しかし、彼女の生来の(自然な)口調で続けた。「ていうか、リンが運転してみたいって頼んだとしても、私がするわよ。ロンドンの道案内とか運転の仕方とか、面倒なことしか考えられないもの」
 ……発端は、リンとレンがロンドンを訪れた時に丁度あった、VOCALOID "ZGV4/ZV2PR" PRIMAの公演である。それが行われるのは、非常にこみいった場所にある古い小さなオペラ劇場だった。《札幌》所属のVCLDは、リンやレンであっても、有名で大きなライブ会場をとるのに不自由したりはしないが、SONIKAの方はそれに比べた自分たちオクハンプトン所属のVCLDのこの境遇を、よく愚痴っていたりもする。しかし、PRIMAの方はといえば、そんな劇場で公演をすることをリンやレンに劣ると感じている様子は全くなく、むしろ、ごく一握りの、彼女を理解し心底から崇敬する『精神的貴族』だけが自分の周りに集まることを、毎回誇りにしていた。リンもレンも、それは少なくともいかにもPRIMAらしいとは思うし、まして、カオスすぎる観客や仕事の多さに日々翻弄されている自分達の身よりも本当にうらやましいとさえ、思えないでもなかった。
 PRIMA自身のことはそれでよいのだが、訪れる方として厄介な問題は単純に、そこが地理的に非常に不便だということである。その劇場は街の真ん中にあるのに、ロンドンの裏道の奥にあるため、混んだ細長い道を長時間かけて自家用車で進まなくてはならず、さらに、毎年道の形が変わるので、地図からの道のりでそこに到達するのは困難だった。デビュー以来ロンドンに居るSONIKAが自分に任せろと言ったのは、そういうことである。
「そこに行くまでの道がわかるのは、PRIMAの他には私だけなのよ」
「その劇場に、行ったことあるの……」レンは聞き返した。
「一度」
「いつ」
「半年前」
 レンは沈黙した。
「いや、だから、PRIMAの公演の頻度なんてこんなものなのよ」SONIKAは言ってから忌々しげに、「しょっちゅうライブだの何だのやってるレンとかと違って、オクハンプトン組はみんなそうなのよ」
「そうじゃなくて」レンはうめくように言った。「その、1度しか行ってないのに、無事にたどりつけるのかって」
「どっちだって関係ないわ。今の時代、どんな細い道だってデータベースに入ってるのよ。車付属のナビゲーションで何も考えなくたって着くわ。万一データベースに入ってなくたって、”検索(ぐぐる)マップ”で上空からの写真がすぐに出てくるもの」
 それなら、最初に言っていた”自分だけ道を知っている”、とかは何も無関係ではないだろうか。レンはそう思いつつも、ここでSONIKAに反駁しても、その帰結にかかわらず何も事態は好転しないのは明らかなので、黙っていることにした。
「急ぐわよ。遅れでもしたら、PRIMAになんかの借りを作るわ」
SONIKAが?」車のそばに戻ってきたリンが、聞き返した。
「あんたたちもよ」
「なんでそうなる」リンがうめいた。
 SONIKAはナビゲーションも不要とつけくわえ、リンとレンのふたりともを、その車のうしろの席に載せた。
「この車、スピナーじゃないんだよね……」レンが後部座席のドアをくぐりながら、車体をながめて言った。
「わかんないわ。……父さんの車だからよく知らないけど、間違いなく違うでしょ。スピナー型の車輛なんて、巨大企業(メガコープ)か公的機関しかもてないもの。《札幌》(そっち)と違って、オクハンプトン組にはそんなのを持つ余裕も必要もないのよ」
「こっちも余裕や必要があるから持ってるわけじゃないんだけど」レンは小声で言った。
 SONIKAが車をスタートさせると、ロンドンの霧が濃く車体にまとわりついてくるようだった。旧時代以来ロンドンの霧は濃くなる一方で、しかも汚染物質入りである。ロスなどの北米西海岸や新浜(ニイハマ)に振る酸性雨のように、人間の体や高級バイオロイドはその影響を気にしなくてはならない場合もあるが、SONIKAと、リンとレンのこのロンドンに置いてあるデコット義体は安物でつくりが精巧ではないので、たいした影響はなかった。
 それよりも、濁った霧が濃くなると視界は最悪で、視界が数メートルに満たないこともあった。
「ダークゾーンだ! *まっくらやみだ!*」レンがうめいた。
その辛いゲームの話はよせ」リンが低く言った。
「ナビゲーションも自動衝突防止もあるから」SONIKAがどこか得意げに言った。「ロンドンを車で移動するには、窓なんて見えなくたって大丈夫なくらいなのよ」
 が、発進してから5分もしないうちに、SONIKAの運転する車は急停止した。
 SONIKAががたんがたんとペダルを踏んでいるが、反応がない。自動制御で、障害物があると自動的に停止し動かなくなるのである。SONIKAと、ついでにレンが窓を開けて、濁った霧の中に顔を出した。相変わらずろくに視界がきかないが、遠くまで見える必要はなかった。正面と左右が、車体からわずか2、3フィートを隔てて壁に面していた。行き止まりにすっぽりとはまりこんだのである。
「ここ、ナビゲーションのデータでは、道が通じてるわよ」SONIKAがステアリング横のモニタを睨んで言った。
「やっぱりナビに反映されてないんだよ」レンが言った。
 それが細かすぎる工事なので反映されないのか、工事でふさがったのが新しすぎるのか、それはわからなかった。
「データを更新するわ。まず、上空からの映像……」
 SONIKAが操作すると、現在の車の上空を撮った映像がモニタに映し出された。が、自分達のちょうど真上あたりがまるで検閲修正がかかったかのようにぼやけて、道が見えなくなっていた。
「なにこれ」レンが覗き込んで言った。
「霧だわ。ここ数日特にひどいけど」SONIKAが苦々しげに言った。「リアルタイムのデータから取得するのは無理ね。後で、正規ソフトの更新版を購入しないと」
「DVDでは湯気がとれますってやつか」SONIKAにはこの”ジャパニーズ・オタ”慣用句の意味はわからないだろうが、リンに聞こえたら殴られても不思議ではないところ、レンは聞こえないように思わずつぶやいていた。
 そんなふうに話している間にも、霧はどんどん深くなるようだった。脱出すらできない。レンは車内の時計を見た。劇場の開演までもう間もない。が、SONIKAにも(もちろんレンにも)打開策などなかった。
 ――と、それまでイヤホンで放送を聴いていたように見えたリンが、不意にコードの端子を車内オーディオ機器から引き抜いた。それは、よく見るとイヤホンではなく、耳のインカムに備えられた電脳直結用の没入(ジャック・イン)端子だった。リンはその端子を滑らせて、別の車内電脳機器の挿入口に差し込んだ。
 リンの義体の目の焦点が変わり、別の距離、別の空間の中のもの、マトリックスの光芒をとらえるようにその瞳の光が揺れた。車の電子機器のメインシステムに、もとい、それを通じて電脳空間(サイバースペース)ネットワークまで没入(ジャック・イン)しているのだ。
「ロンドンの交通局のデータベースには、この道のデータはちゃんと入ってるよ」そのままの姿勢で、リンの口だけが動いて言った。「まだ準備中で、一般人はアクセスできないみたい」
「それ、アクセスして、ここに表示できる!?」SONIKAが急かすように、自分の横のモニタを指差して言った。
「いいけど、そうやって地図を見てSONIKAが運転したとして、開演まで間に合う?」
「それは……」SONIKAが口をつぐんだ。
 リンの別の空間を見ている瞳が、またきらめいた。
 突如、車がまるで身震いするように音を立てて振動した。同時に、窓から見える車の周囲から、霧が一度に吹っ飛んだように消えうせた。何かわからないが、まるで車が四方から強烈な圧縮空気を噴射したようだった。
「なぁんだ、この車、やっぱりスピナーじゃない」リンがそのまま、独り言のようにつぶやいた。
 黒い車はさらに激しい振動と、なぜか横方向に回転を加えだした。ドリフトやスピンでは、しかも停車した状態からはありえない。
「レン、さっき聞き忘れたんだけど」SONIKAが、半分わめくように問い詰めた。「どうして、『リンには車を運転させちゃいけない』のよ!?」
「『とばし屋』なんだよ」レンがかろうじて振動の中で聞こえる声で言った。「もののたとえじゃなくて、ほんとに『飛ばす』んだ」
 そこでSONIKAは首を曲げ窓の外を見て、はじめて、自分たちの乗る車が、宙に浮きながら回転(スピン)しはじめていることに気づいた。
 ――ホーヴァ装置とフォトンマットその他の浮揚機構で空中を飛行できる車輌、”スピナー”は、滅多な法人でも所有できないほど貴重・希少で、おそらくロンドンのような大都市にも数えるほどしか存在しない。仮に、VOCALOID一族の長であるLEONがそれを所有していたとして、周囲には、ただの自動車としか教えていなかったとしても何ら不思議ではない。何故なら、普段は特にスピナーとして使用する必要もなく、それ以上に、ロンドンのVCLDとその関係者の中には、それを制御できる者などいないからである。スピナーや軍用デルタの制御には、人間用にカスタマイズされたポリス・スピナーを除いて、複雑極まりない高度なシステムを『電脳直結』して手足のように操作する必要があり、それにはリガー・ジョッキィと呼ばれる特殊な才能が必要だ。
 なぜ鏡音リンがスピナーを制御できるリガーの能力を持っているのか、その理由はレンも知らないのだが、ともかくリンが札幌では、ロードローラー型のスピナー『ジョセフィーヌIII』を日々乗り回し、もとい、飛ばし回しているのは事実だった。
 つかのま上昇が止まったかと思うと、車体は突如、弾丸のようにまっすぐ水平に飛翔した。眼前に迫った高層ビルの窓傍をすれ違い、ヘアピンのような動きで回りこみ、そのまま直進した。ステアリングを強く握ったまま(制御はリンが電脳直結で行っているので、ステアリングは何も制御には寄与しない)のSONIKAが、ウィンドシールドごしにその光景を目撃して絶叫した。レンの方は声も出ない。慣れているからではなく、その気力もないからである。操っている張本人、没入(ジャック・イン)しているリンは相変わらずどこか別の空間に焦点を合わせた瞳のまま、何に掴まるでもなく、まるで徐行する車の中のように後部座席にゆったりと座っているだけだった。今、LEONの黒いスピナーの全システムはそのリンの電脳と直結し、文字通り手足の一部となって駆動している。その電脳指令にあわせて、スピナーは高層ビルの林立する合間、目的地までの最短距離を、魔弾(マジックブレット)の如きジグザグの軌道と速度で突っ切った。今のリンにとっては――リガーの電脳にとっては――そこが札幌だろうがロンドンだろうが、アクセスしたすべての”道”、すべての地域の地理そのものと一体となっているに等しい。
 スコットランドヤードのポリス・スピナーが、ほとんど同じスピードで真正面から迫り(サイレンを鳴らしてはいなかったので、自分達を追いかけて来たのではなかった、と気づいたのはずっと後である)十数フィートを隔てて両方が回避してすれ違ったが、ほとんど宙返りして急速に遠ざかったヤードのスピナーは、まるでこちらが空気の弾丸をぶつけて吹き飛ばしたかのように見えた。それらの光景が連続するたび、SONIKAは手が真っ白になるほどステアリングを握り締めつつ、ひっきりなしに絶叫したが、何もかも振動と風の轟音にかき消されていた。しょせんは第二世代VOCALOIDのシャウト能力はその程度の存在感でしかない。ならば自分も叫んでもどうせ無駄だ。などと、レンの方は諦め半分、気を紛らわせ逃避する半分に、思い巡らせていた。
「思った通りね。貴方がた、きっと開演時間ぎりぎりに駆け込んで来ると思っていたけれど」
 ――劇場のそばに停車したスピナーから這い出すように、楽屋近くにたどりついたSONIKAとレン、そのうしろに続いたリンとの3人を、その言葉と共に、オペラ衣装のPRIMAが出迎えた。その言葉通り開演ぎりぎりの時間にも関わらず、PRIMAは何ら慌てた様子などはなく、SONIKAとレンの憔悴しきった表情を、面白そうに覗き込む余裕すら有った。(それは何度繰り返してもライブのたびに身構えるレンには、信じがたいことだった。)
「あらまぁ。お二人とも、地獄の狭間を潜り抜けでもしてきたような顔だこと」
 PRIMAはSONIKAとレンを値踏みするように眺め、大きな目を細めて、唇をぐいと釣り上げ、
「まぁ、考えられるありとあらゆる形で、ロンドンの下町、霧に包まれた裏路地を満喫する機会を持つのは、大いによろしくってよ」
「……別にロンドンのせいじゃないわよ!」SONIKAがやっとのことで声を振り絞り、背後のひとり平気そうなリンを指差した。
「いや、そうともいえないかも」レンがつぶやいた。