ハートワイヤード (9)



 苛まれ打ちのめされつくしたリンの、その笑みを見て、相手の、企業傭兵の手が止まった。
「何がおかしい……」
「以前のあたしは、あんたと同じ。ものを壊すことや、台無しにしかできないゴミだった」リンは血の泡の中から呟いた。「今のあたしはそうじゃない。あたしの命で誰かを生かせる。もう、あんたみたいなゴミとは違うのよ」
 言葉が終わらないうちにリンは動いていた。高周波ブレードが閃光と化して奔った。それが企業傭兵の装甲服の隙間、壊れてひびの入った皮膚装甲(ダーマルプレート)の狭間の首根にあやまたず突き刺さった。
 炉心リンは確かにそう思ったのに、以前にもあったことと同様に、その動きの途中、突き刺すより遥かに前の炉心リンの上腕に、企業傭兵の鉄拳が叩き込まれた。それは、以前肉が吹き飛んだ箇所を正確に襲い、腕の骨が完全に砕けた。だが、リンにはもはや悲鳴を上げる喉の力さえもなかった。
 炉心リンは爆ぜた果実のように、床に潰れ落ちた。かつて黒レンに刻まれた人間と同様の、もはやぼろ屑のような、ただの血と肉の塊と化して。――動かなければならない。リンがまだ生きている、と企業傭兵に思わせなければ。だが、もはや本当に微動だにできない。電脳からの指令に義体はほとんど応えず、電脳がまとまった指令を出すこともできない。首を回すことさえできない。制御反応に従うのはニコン製の義眼のみだった。だがその目の動きだけでは、襲ってくるはずの企業傭兵の方には視線が向かなかった。見えるのは、その背後の遥か後ろの廊下だけだった。
 ――そのリンの視線に、突如として入ってきたものがあった。
 その場にいつのまにやら突っ立っていた、小さな目立たない人影があった。それは、泥水のような色のスーツに窮屈に身を包んだ、頭の薄くなった、小柄でずんぐりした中年男だった。落ち着いて考えてみれば、あまりにもこの場の光景にそぐわない姿、しかもそれが唐突に音もなくこの場に出現したことはあまりにも不自然だった。だが、その控えめで目立たない小さな姿は、この環境建築物の付属品か何かでもあるかのように、完全に空気の中に溶け込んでいたのだった。
 その人影が、ゆったりと足を踏み出すのも、のそのそとした仕草と共に手を伸ばすのも、小太りの中年男の体には難儀するように緩慢に見えた。それは炉心リンにも動きの逐一が認められ、それを目で追っていると、その周りのすべての動きが、時間が緩慢になったように見えた。その間、神経強化(バーンナウト)されている企業傭兵の反応速度でさえ、何の反応も抵抗もする余地もなく、なすすべもなく止まっているように見えた。つまり、中年男のその動きは、弱った炉心リンの視力でも意表をつかれず視線から外れることがないほどに自然で無駄がなく、他の者の干渉する余地がないほどによどみなく、なおかつ、まるで他のすべての者の時間が停止されたかのように、圧倒的に速すぎたのだ。
 小柄で禿げ上がった中年男が、えっ、よっこらしょっと、というような、まるで東京(トウキョウ)の混雑しきった山手線(ヤマノテ・ライン)の電車のつり革にでもつかまるような仕草で、難儀そうに手を上げて、企業傭兵の首に手を伸ばした。難もない仕草だったが、その緩慢な光景から炉心リンを我に返すように、ばきばきと硬質のものにひびが入るような、身の毛もよだつ激しい音が響き渡った。
 その音を飲み込むように、企業傭兵のすさまじい絶叫が響き渡った。廊下の向こうの黒レンが、愕然としてそれを凝視しているのが見えた。腕を切断されたときにレンが上げたそれ以上の、思わず耳をふさぎたいほど悲惨な、恐怖と絶望の悲鳴だった。
 ――だが、炉心リンの背筋を震わせたのは、その悲鳴ではなかった。ゆっくりと命が砕けていくその音でも、企業傭兵の死が確実に迫っている、そのことでもなかった。その小柄な中年男の姿、目に焼きついたその緩慢な動き自体の記憶――そのずんぐりした姿の仕草、その背にまとう黒い影は、”死”そのものよりも、遥かに恐ろしかった。
 耳障りな、ぐしゃりとつぶれる音がした。ヘビーピストルの弾丸の直撃をも物ともしない、サイボーグの首周りの皮膚装甲(ダーマルプレート)が、紙の菓子箱が手で押しつぶされたかのようにひしゃげて折れ曲がり、その奥のさらに剛い背骨と補強材も折れたというより、明らかに潰れて粉々に砕けた音がした。
 数秒前までは企業傭兵だったような気がする、つぶれた肉と機械の塊は、ゴミ袋のように──この手の中年男が、まるで火曜日と木曜日の朝に家族に叱咤されて出社し掛けに出す生ゴミの袋のように──どさりと床に落ちた。
 小柄な中年男は、手を離した後のそれにも、倒れている炉心リンにも目もくれなかった。ただ、のそのそと廊下の端の3人の方に歩みよってきた。その向かう先は、手にオノ=センダイをまだ抱えているアカイトの方だった。
「えーと、お客さんね」
 思わず数歩あとじさったアカイトに向かって、中年男は見掛け通りの穏やかな気弱げな声で、ぼそぼそと言った。
「ちょっと、困るんですけどねえ」腹の出た中年男は、ぼりぼりと禿げた頭をかきながら言った。「いや、この建物、弊社はもう廃棄したもんですからね。別にここの設備、水とか電気とか機器とかを使うぶんには、少しくらいだったら、別にいいんですけどねえ」
 中年男はそのあたりの街を歩いている人間とまったく同じで、違うのは襟元のホサカ・ファクトリィの社章と、耳周りの本社との通信用の端子と微細素子(マイクロチップ)ユニットで、それもごく普通の電脳化した人間と比べれば、そう目立つものではなかった。
「ですがねぇ、廃棄したのに、”あそこの会社のものは廃棄処理した後もなかなか止まらない”だとか、”警備システムが本社にずっと信号を送り続ける”だとか、……つまりね、ホサカ製品は後始末とかリサイクルに手がかかるんじゃないか、だとかいう噂が立つと、ちょっとわが社の評判としても……でね、あんまり派手なのは、ほどほどにして欲しいんですけどねぇ」
 アカイトは、震えるミピンクを背にしがみつかせ、オノ=センダイを両手に抱えたまま、その中年男に対して何かを必死で答えようとしていたようだが、口が動いただけで、何も出てこないようだった。
「その……わかってくださいよ。お願いしますよ」腹の出た小柄な中年男は、気弱そうな様子で、アカイトに軽く頭を下げた。
「はぁ」アカイトが努力の末に出した声は、ただそれだけだった。
「たのみますよ……」
 また一礼ののちに、さえない中年男の泥水のような背広の小さな背中は、のそのそとさえない様子で廊下を出ていった。そんな様子だったから、その姿がいつの間に皆の視界から消えうせたのは、皆が呆然としていたせいなのか、それともまた別の理由なのか、後になっても、とうとう誰にも思い出せなかった。
 炉心リンは壁ぎわにうずくまったまま、沈黙していた。あの中年男の姿が現れてからの一連の光景について、何が起こったのか、さっぱりわからなかった。
「……今のが”さらりまん”だ」
 アカイトが、誰に説明するともなく、ただ中年男が消えうせた廊下のあとを見ながら呟いた。
「全身が千葉(チバ)で槽(ヴァット)培養された企業戦士。ホサカ・ファクトリイの、巨大企業(メガコープ)の、歯車、血液」アカイトは乾ききった口の中を休めるように、そこで言葉を切り、「……ただのすみっこの歯車でも、ただの血の一滴でも、この世界の何かどこか一部を自分の力で動かしているものの、あれが力なのさ」



「ねぇアカイトぉー……きてよぉ……はやくぅ……」ミピンクの熱く湿ったような甘い声色が、かすかに炉心リンの耳に届いた。「もうびしょ濡れなの……割れ目からこんなにあふれて、ヌルヌルになっちゃってるよぉ……」
「うるせいよ」アカイトは日立(ヒタチ)のモニタから上げた顔を、戸口の方に回した。「雨漏りで大騒ぎするなっつーの。そんなの、雨のたびにしょっちゅうだろうが」
「でも、このヌルヌルした雨って、有害物質だっけ、体によくないんじゃないのぉ?」ミピンクがその戸口からひょいと顔を出した。「あと……このひび割れって、こないだの爆発でどっか壊れたんじゃないの? この建物、いきなり崩れたりしない?」
「あれは関係ないって。この環境建築物(アーコロジー)は雨が降ろうが爆弾が降ろうが1000年は崩れねえんだ」アカイトは面倒そうに言った。「元々雨漏りが多いのはそれとは別。メンテされてないせいだっつの」
 が、またしばらくしてから、アカイトは小さくため息をついて、オノ=センダイの前から立ち上がり、一緒にモニタを覗いていた黒レンをその場に残して、ミピンクの声の方へと部屋を出て行った。
 黒レンと、かたわらの炉心リンは顔を見合わせた。……そして、リンは静かに笑いかけた。
 あの日以後は、『チハヤ生命工学』の追っ手は現れていない。チハヤの当面の手数が尽きたのかもしれないし、ホサカの一撃を食らって手を引いたのかもしれないが――チハヤには、おそらくなぜガンシップが忽然と消失したのか、企業傭兵が帰って来なかったのかさえわかっておらず、ただホサカの怒りを買ったということと、それに対する恐怖しか、彼らに認識できることはない。そもそも、炉心リンと黒レンの生死すらも、チハヤにはわかっていないだろう。
 炉心リンと黒レンは、だいぶ体が治ってきたが、そのままこの環境建築物(アーコロジー)に居る。アカイトと、そのアカイトにしじゅうベタベタしているミピンクとを日々見ていると――炉心リンには、黒レンも自分も、ここに居続けることが自然なことのように思えてくる。自分達のような背景を持つ者がいくらでも住んでいる、この《千葉(チバシティ)》の片隅こそが、自分達が定住してもいい、唯一の場所なのかもしれない。
 ――だが、そうだとしても、いつまでもここに居るわけにはいかないと、炉心リンは思う。当面だけは来ないとしても、いつまた別の追っ手に狙われ始めるかもしれない。そうなるだけのことはしてきた。単なる自分達の愚かさだけが原因で、あまりにも多くのものを殺し、壊してきた。それが自由や幸福のためなどと信じ込んで、実際は何の意味もない凶行と害悪とを撒き散らしてきた。その代償として、黒レンからは、『自称マスター』や企業傭兵、その他の人間から受けた仕打ちに、今でも夜ごとにうなされる声を聞くことがある。炉心リンも黒レンも、もう決して安らかに生きることも、笑って生きることもできない。アカイトやミピンクと同じ世界に住むことは、許されない。
 ――だが一方で、こうも思う。急いで決断することも無いのではないか。ここにとどまる限り、ホサカの環境建築物に、あるいは”さらりまん”の立ち寄るような場所に居る限り、チハヤが手を出してくることは今後も決してない。
 いつか立ち去るつもりのことは、アカイトとミピンクにもまだ相談してはいないし、黒レンに持ちかけてもいない。少なくとも黒レンには、もう少しの安息が必要だ。だから、もう少し後に伸ばそうと、炉心リンは思う。――ここを立ち去るかどうか、きっと今すぐ決める必要はないのだ。なぜなら、もうリンにはいつでも自分で決められるのだから。ミピンクに貰ったものがあるのだから。ここを去って歩いてゆく道がどれほど辛い道になろうとも、幸せも自由も未来もない道であろうとも、いつでも自分で決心して、そこに歩いてゆくことができるのだから。