もう貴方なんて必要ない (前)

 神威がくぽがやって来ないからといって、何だというのだろう。
 巡音ルカはそう思いながら、スタジオのロビーにひとり立っていた。そのルカが今、無表情で何ともなしに見つめているのは、手にしているスケジュール表だった。今後の予定とは関係ない、すでに終わった昨日までの数日分の箇所、そこには印がつけてあるわけではないが、がくぽが自分のところにやってこなくなったその日から今日までの箇所と、その日数が、ルカの目にはあたかも印がついているかのように焼きついていた。
 ──来なくなったからといって、何だというのだ。以前がくぽが来ていたときも、それに何か必要性や理由があったわけではない。だから、気にするようなことではない。こちらからがくぽを追いかけたり、確認したり、そんなことをしてもおかしい。
 ルカは自分にそう言い聞かせると、諦めたように、さっさと分厚い紙の束のスケジュール表をめくり、その先にある明日からの日程、濃密に詰まった予定を確認した。
 しかし、そのルカの手が止まった。数日後に、ライブの予定が記されていた。ルカ達《札幌》所属のVOCALOID何人かの他にも、がくぽも出演するイベントだった。
 ルカはしばらくそのスケジュールを見つめてから、それを閉じ、手にして歩き出した。
 ……ライブの予定について、打ち合わせておいた方が良い。必要がある以上、自分ががくぽを訪ねるのも仕方がないことだ。ルカはそう自分に言い聞かせて、《大阪》所属のVOCALOIDのいる別のスタジオに向かった。



 この当時、つまり、巡音ルカのデビューから5ヶ月ほどの間のことだが、神威がくぽはしばしばルカの元を訪れていた。出会った当初は、《札幌》と《大阪》と所属する社も違うのでさして縁も無かったのだが、きっかけは、ルカのデビュー直後の収録で、スタジオの電脳システムに、音源コンフリクト(機能衝突)のトラブルが生じたときだった。
 以後、何かルカにトラブルがあると、がくぽは手助けだと言って飛んでくるようになったのだが、颯爽と解決するかというと無論そんなことはなく、それどころか、トラブルに対して一緒に慌てたり叫んだりするだけで、何の役にも立たなかった。武人VOCALOIDの秀麗な容貌と物腰だけからは感じられる、その颯爽としたイメージは、ここに至ってほぼ跡形もなく瓦解した。
「ルカが困ったときは、何でも助けを求めるがよい」がくぽは、大真面目でルカにそう言ったものだった。「いつでもルカの傍にいるぞ」
「必要ありません」ルカは冷たく返した。
 実のところ、トラブル以外のごく他愛ないことでも、がくぽはよくやってきた。数多くのVOCALOIDのうちでも、がくぽは、デビューしたのがルカのすぐ直前にあたる者だった。なので、この業界、VOCALOIDの仕事について、わからないことがあれば一番近い自分が助けになろう、と言っていたのだが、冷静で高機能、修養期間(巡音ルカは英語ライブラリを持つので、海外での修行の期間だった)も長いルカが、がくぽ側に何か教わったり、解決になったことなど何ひとつ無く、ルカが諭したり教えたりすることの方が多いくらいだった。
 すぐにわかったのだが、どうやらがくぽはルカを、自分以前にデビューした《札幌》の他の5声のVOCALOIDよりも、がくぽ自身に近しいと感じているようだった。《札幌》の5声の直後に《大阪》からデビューしたがくぽが、同じボーカル・アンドロイドでも以前の5声と比べてあまりに”異質”という、ファンやユーザーの声はいまだに聞く。なにかと”家族”扱いされている《札幌》の5声に対して、《大阪》にはがくぽひとりしか居ない。そんな浮いている存在であるがくぽが、他の5声からはやや間を空けてデビューしたルカに対しては、近寄りやすいものを感じているのかもしれなかった。おそらく、がくぽ本人に自覚が無いことなのは間違いないが、そんな軟弱げな動機も、ルカに一層の頼りなさを感じさせるのだった。



 ルカはスケジュール表を手に、《大阪》のVOCALOIDの控え室、現在は実質上がくぽの個室のような部屋の前に、しばらく立ち止まった。半開きの扉の前を、遠くから伺うようにすかし見た。
 中に、応接の長椅子に掛けているがくぽの姿が見えた。ルカはそれを見て、改めて扉を叩いて入っていこうとしたとき、突如、その視界にとびこんできたものがあった。
「やったよ! ほら見て!」
 がくぽの背にとびつくように、緑の髪の少女が椅子にのしかかった。柑橘系の丈の短い服は、がくぽを含むそれまでのVOCALOID達のような人間と比べた異質さがかなり薄く、おそらく親しみやすいものとなっている。緑の短い髪に、赤のゴーグルが、快活そうな印象を強めていた。──それが、VOCALOID GUMIの姿を、巡音ルカが目にした最初だった。
 GUMIは、がくぽの肩越しに手を回して、自分のスケジュール表をがくぽの視界の前に差し出した。
「む」
 がくぽは頷きながらGUMIにそんな相槌を発し、その表を見下ろした。
「頑張って仕事取ってきたよ! ほら、このPってさ、もうヒット曲がだいぶ出てるから、同じ曲のカバーだけだって、ある程度再生数マイリス稼げるのは確実! 知ってるでしょ」GUMIは言いながらスケジュール表の一点を指差し、がくぽに示していたが、がくぽの表情を見ると、やがて言葉の後ろが萎むような口調で、「って知らないんだ……」
 GUMIはがくぽの反応の薄さを見て、肩を落とすオーバーアクションぎみの仕草と落胆したような表情を見せた。そのGUMIに、ルカは自分には作れない、自分には入り込めない空間を見たと思った。
「そうだとすれば」がくぽは肩越しのGUMIに対して、精悍で凛々しい(これは見かけだけならいつもだが)表情の中に、ルカには今まで見せたことが無いような、柔和なものをこめて言った。「GUMIにとっては、最初の大仕事となろうな」
「最初の……」
 GUMIはそのがくぽの言葉に、当初の印象に反して急に深刻な表情になり、息を呑んだように見えた。
「我らの仕事は、《札幌》の面々に比ぶれば、今はまだわずかな数にすぎないかもしれぬ。それらの仕事にせよ、曲の出来もその後の評も、曲を作る者によって決まるにすぎず、我らの責ではない」がくぽは言った。「故に、我らの責を、軽いものと感じるかもしれぬ。……だが、責を負う部分が限られているからこそ。我らはその負う部分について、真摯に行わねばならぬのだ」
 がくぽはGUMIに言ってから、
「困ったときは、何でも助けを求めるがよい。……いつでも傍にいるぞ」
 がくぽが先輩風を吹かせようとしたところで、あの頼りないがくぽが、必要になることがあるものか。助けや傍にいたところで。……その場に立ち尽くしてその光景を見つめながら、ルカは意識のどこか遠くで、そう思った。
 しかしGUMIは、そのがくぽを見上げてから、よりかかっていたがくぽの腕に自分の両腕を回した。ふたたび笑みで見上げながら、その腕を堅く締めたように見えた。
 ──と、そのGUMIが、ふと気づいて顔を上げた。
「あれ?」GUMIはがくぽの腕を抱いたまま、入り口の扉の外に向かって、覗き込むように首を回した。「……誰だろ?」
 だが、半開きになった控え室の扉の外には、すでに誰もいなかった。



 ルカはスタジオの建物の外まで出て、芝と並木に沿った道を、何気ない、力ない足取りで歩いた。
 ──そういえば、神威がくぽにも”妹”ができた、と言っていた。
 デビュー直後のGUMIのことは、《札幌》の面々でも社交性が特に高い鏡音リンが、さっそく会ってきた、と言って、どんな娘だったか話していた覚えがある。リンの感性と人物評の的確さには定評があるが、さきに見た光景のGUMIは、おおむねリンの評の通りだった。
 では、彼にもやっと、”家族”ができたのだ。ルカより前の《札幌》所属の5人が、そう呼ばれているのと同様に。《大阪》のVOCALOIDは、もう一人ではない。近しい存在を求めて、わざわざルカの所に来る必要は、もう無いのだろう。
 がくぽには、もうルカなど必要ないのだろうか。
 ……ルカは歩きながら、小さく息をついた。だからといって、何がどうということは無い。がくぽが以前よく来ていたことにせよ、初期のたまたまのトラブルがきっかけの、惰性だったに過ぎない。確かに一緒に歌う機会は割と多かった。並べば似合うと評するファンやユーザーやプロデューサーも少なくなかった。他の5人のどの組み合わせよりも見栄えがすると。見かけだけの話だ。そして、ヒットしたデュエット曲は特に多いわけでもない。ルカとがくぽの間の特別な点といえば、その程度のことがあるにすぎない。
 がくぽについてのそれらの他愛ないことを思い出し、淡々とそれを捨て去るように心の隅に押しやりながら、ルカは思った。何も考えずに、こうやって捨て去り、立ち去ってしまえばいい。歩きながらそう思った。
 しかし、それらの記憶をたぐる中で、先に見た、がくぽとGUMIのふたりの光景がよぎったとき、不意に胸の奥に、何かの鋭い痛みを覚えた。自分には作り出せない、入り込めないと思ったその光景を思い出したとき。それを記憶から押しやると、すぐにその痛みは消えたが、脳裏から胸にかけ、次いで全身に広がるように、もやもやと不可解なものが残った。
 ルカは呆然としたように目を見開き、しばらく立ち止まったままでいたが、やがて、それをゆっくりと振り払うと、ふたたび歩き始めた。



(続)