もう貴方なんて必要ない (後)


 《札幌》の面々とがくぽのライブのその日、ステージ手前の楽屋で、出番の直前だというのに、神威がくぽは背を折り曲げるように俯いたまま椅子に掛けていた。その目は床を見つめたまま、心ここにあらずといったふうでさらに床の上をさまよっていた。
「何ごとですか」ルカはそのがくぽの前に立ち止まり、平坦な声をかけた。
「……戻るわけにはゆかぬ」ルカの質問に対し、がくぽから出てきたのは、切羽詰った焦りの中からかろうじて染み出したような独り言だった。
「落ち着いて話して下さい。もうすぐがくぽの出番だというのに、何があったのです」ルカが冷静に言った。
「今、《大阪》の方では、GUMIが収録の仕事中、災難に巻き込まれておるというのだ。……戻ってやりたいのだが、出番の直前だ」がくぽは言ってから、また独り言のように続けた。「せめて……我のこの舞台と、GUMIのその大事な最初の大仕事が、同じ日だとあらかじめわかっておれば……」
 ルカはふと、あの日に見たがくぽとGUMIのやりとりを思い出した。あのとき自分が扉の前で引き返さずに、ライブについての打ち合わせをして、がくぽと日付を確認していれば、防げたのだろうか。
「仕事は真摯に行わねばならぬ、と教えた我が、仕事を捨ててGUMIのもとに戻るわけにはゆかないではないか。……戻ったところで、我が何かの役に立つわけでもない」
 ルカの脳裏に、ふとよぎった考えがあった。
 今、がくぽが行かなければ──窮地に陥っているらしいGUMIのことを選ばなければ──がくぽは、今後もこのまま”戻る”ことはなく、自分の傍に居ることになるのではないか、──ということだった。その考えは、ルカの中で次第に大きくなっていった。
 しかし、その次のがくぽの言葉が、不意にルカの頭脳から血の気を引かせた。
「……実のところ、我にもGUMIに何が起こっているのかわからぬのだ」がくぽはうつむいて、低く続けた。「収録途中に、最初の大仕事の『緊張で倒れた』などと言っている。我ら一族に、そんなことが起こり得るのか? それは、本当に我が仕事を捨ててまで、GUMIのもとに行かなくてはならないほどのことなのか、我にはそれさえわからぬのだ……」
 ルカは目を見開いて立ち尽くした。──今、GUMIに起こっているそれは、ルカにもかつて起こった、”音源コンフリクト”に他ならない。
 ボーカル・アンドロイドは24時間故障も疲労もなく歌える、それはプログラムとは決して破損することがない、システムがクラッシュしない等と同様の、メーカーの宣伝文句にすぎない。特に、慣れない機器や電脳システムに囲まれ続ければ、VOCALOIDとて、人間のように緊張で倒れることもある。
 うつむいているがくぽの背中を見ながら、ルカは立ち尽くした。おそらく今GUMIの身に起こっていること、……デビュー直後の自分の収録で、最初に起こった音源コンフリクトのトラブルのこと、がくぽが最初に来たあの時のことが、生々しく蘇っていた。
 当時のルカは《札幌》でのVOCALOID業界についても、使われているシステムについてもわからない頃にも関わらず、冷静で高機能な自分を装い続けようとした。無理やり急に適合させようとした機器や音源との不具合が、気が張り詰めていた自分の心の隙を衝くようにコンフリクトを起こし、ルカの心身を限界まですり減らせた。まさにデビュー直後の大事な収録だというのに、そのときルカはうずくまったまま、何もできないでいた。
 ルカに起こったのは重大な衰弱というほどではなく、回復するまでの時間もさほどではなかったのかもしれない。しかし、衰弱以上にルカを追い詰めたのは、その状況の心細さだった。その場にはいつもの《札幌》の家族も居らず、ただ一人だった。その収録が失敗すれば、デビュー直後のルカ、ひいては《札幌》のVOCALOIDというものが、ルカのせいで使えないものという烙印を押されるものと思った。
 何の解決もできないままに時間が過ぎる中、最初にかけつけた、不意にそこに現れたのが、何故か、神威がくぽだったのだ。
 何もできず衰弱しているルカのかたわらで、プロデューサーやスタッフが現れるまでの間、がくぽが騒いだり真剣に全力で空回りなどをしていたことには、何の意味もなかったと──ルカはたった今の今までは、そう思っていた。自分でも気づかなかったのだ。あの時がくぽの存在に、どれだけ安心を感じたか。
 そして、その安心を感じて以来、どんなに役に立たなくても、何の必要もなくても、頼りなくても、がくぽがいつでもやってきて傍に居てくれることに、ルカは無意識に固執していたのだった。
 ……しかし、今のがくぽを本当にその傍に必要としているのは、誰なのだ。今のGUMIがコンフリクトに苛まれているとすれば。あの時の自分ほどの冷静さも高機能さも修養経験も持たないGUMIが。おそらく、あの時の自分よりも深刻な事態に陥っているに違いないGUMIが。
「何を迷っているのです」ルカはがくぽの背中に言った。「何故、戻らないのですか」
 椅子に俯いていたがくぽは、ルカを見上げてから、やがて控室の出口の方をためらいつつ見た。
「ステージにではありません。《大阪》にです」ルカは平坦に言った。
 がくぽはその言葉に、呆然としてルカを見上げ続けたが、
「しかし──我が戻ったところで、解決にもならぬ、何の役にも立たぬ」がくぽは再び、ためらいながら言った。
「解決の役に立つ者など、どの道、誰もいません。音源コンフリクトは、本人が衰弱から回復するまで解決しません。けれど、行って傍に居ることだけで、せめてGUMIを安心させることができるのは、”家族”である貴方だけです。問題の解決の何の役に立とうが立たなかろうが、GUMIが必要としているのは、貴方だけです」
「しかし──仕事が、この後の出番が」がくぽは、さらにためらいながら言った。「出ることになっていた演者が、ひとり抜けるなどと」
「かわりに私が出ます」
 意味がわからないかのように、がくぽはルカを見ていた。
「ライブで、ひとりでふたり分のVOCALOIDの役割をこなすことなど、私にとっては造作もありません」ルカは無表情で言った。
 がくぽはルカを見て、楽屋の出口を見て、またしばらくの間、ためらった。
「自分が今、どこで本当に必要とされているか、貴方には、それが今もわからないというのですか」ルカは平坦に言った。「GUMIは今、貴方を必要としています。──この場には、もう貴方など必要ありません」
 神威がくぽは椅子から立ち上がった。その後もしばらく戸惑った。無表情で立ち続けるルカに向かい、見つめたが、何をどう言っていいのかわからないようだった。結局、ただ一言、済まぬ、とだけ言って、楽屋から姿を消した。
 ……ルカは、そのがくぽの後姿を最後まで見届けもせずに、楽屋の隅に置いてある楽曲ファイルの収納された棚を開いた。ディスク状のおびただしいデータファイルの端に指を当て、グリッサンドのように端から端まで指を走らせただけで、隅まで全てめくって内容を確認した。ためらう様子もなく、楽曲ファイルのうち一枚、英語ライブラリ用のデータのファイルを抜き出した。巡音ルカは、日本語と英語でまったく別の、VOCALOID2声分の音源ライブラリを備えている。そのデータファイルを耳の電脳インカムのスロットに挿入し、解析した。
 それから、無造作にステージに向かった。
 次には神威がくぽが現れると思っていたライブの聴衆は、出番が終わっていたはずのルカが二度目に現れると戸惑ったように、ざわめいた。しかし、ルカが英語の歌、前の演目でのルカの日本語の歌とは曲調も声質もまるで異なるように発声された歌を発すると、聴衆はどよめきから転じて、静まり返った。その歌が、声が、まったく別個のVOCALOIDのように、以前のルカとはまるで違うように聞こえたのは、はたしてライブラリが違うだけの理由なのか、どうか。
 巡音ルカは満場のその観客だけを前にして、背を誰にも支えられることもなく、歌い続けた。



 それから数日後、巡音ルカは廊下に立って、スケジュール表の空白の過去履歴を見つめていた。やがて、我に返ったように以後のスケジュールへと目を戻した。相変わらず濃密に詰まっている。それらに没頭こそすれ、他の何かの感傷を思い返している暇はない。そう思おうとした。
 しかし、スケジュール表をしばらく眺めてから閉じると、ルカはスタジオの建物を出た。
 緑の芝と並木沿いの道を、あてもないように何気ない足取りで歩く。ただ風が冷たい。
 ──と、背後の遠くから足音がした。何者か、歩幅の大きい者が駆けて寄ってきた。
「……ルカ!」
 呼ぶ声がしたので、気もないように振り向いた。
「ようやく見つけた。探していたのだ」神威がくぽは荒い息で、鍛錬を欠かさない武人VOCALOIDにもかかわらず、こんな状態なるまで必死に走り回ってでもいたのか、立ち止まってからもあえぐような息の中から言った。
 ルカは立ち止まり、そのがくぽを無表情で見つめた。
 ──なぜ、そうやって来る。以前からずっと、そしてあのときのライブのときも、貴方のことは必要ないと言ってきた。どうしてそれが理解できないかのようにやってくる、それほど愚かなのだ。
 貴方のことを、ようやく諦めたというのに。なぜ、今になってやって来るのだ。
「ルカに言わなくてはならないことがある。……礼だけでなく、言わなくてはならないことがあるのだ」
 がくぽは落ち着かない息のまま、急くように言った。
「GUMIがあのとき倒れた、というのは、ただの例えではなく……危ない状態であった。我が駆けつけなければ、とりかえしのつかない事になるところであった……」
 がくぽは何とか表現しようと(VOCALOIDの構造システムのことは恐らく理解できないまま)いかに重大なことだったのか、何とか言葉にしようとしているようだった。
「その礼も言わなくてはならないが……それだけではないのだ。あの時に、我が戻らないことを選んでいれば、GUMIだけでなく、我自身も駄目になっていたのであろう。”妹”を見捨てた我は、生涯後悔することとなったかもしれぬのだ……」
 がくぽは低く言い、言葉を切ってから、
「……すべては、ルカのおかげなのだ。以前から、ルカが言っていたことなのだ。無駄にルカを追いかけて傍らに居る必要がない、とは、本当に必要な場所にこそ居るべきである、という意味であったということが。それに気づいたのだ」
 ──自分は決して、そんな大層なものではない。
 ルカは何かそれを言葉にしようとしたが、言うべき語が見つからなかった。ルカは思わず、がくぽから目をそらそうとした。
 そのとき、がくぽがルカの両肩を掴んだ。その掌が、これまでのがくぽの手には覚えがないほどに力強かったので、ルカは思わず見上げた。その先には、がくぽの軽率で頼りない面影はすでに無い、重く真剣な視線があった。
「わかったことがあるのだ。──たとえ、我はルカの役には立たないとしても。ルカには、我は必要ないのだとしても」
 がくぽはルカにまっすぐな目を注ぎながら、低く言った。
「我には、ルカが必要なのだ。……これからも、どうしても必要だ。傍に居てくれぬか」
 ルカは、いつもの冷たく平坦な表情の中に、わずかに穏やかな感傷をこめた目で、そのがくぽの目を見上げ続けた。そのまま、がくぽとルカは見つめあい続けた。冷たかった風が、両者の周りを渦巻くように巡った。
 やがてルカは息をつき、そのがくぽから目をそらしたように見えたが、不意につま先で立ちがくぽに上体を寄せた。
 驚きにすくんだように突っ立ったがくぽの、その頬に唇を触れた。
 そして、そのまま耳元に囁いた。
「相手を必要としているなら」それはルカの、いつもの抑揚のない平坦な声ではなく、蠱惑的な深みを含んだ声に聞こえた。「その相手がではなく、自分の側が、すべき事があるのですよ」
 ルカは身を翻し、がくぽの腕からすりぬけるように背を向けて、うずまく風に髪をなびかせて歩み去った。
 しばらくの間を置いて──やっとのことで我に返ったか、また少し遠くから、ルカの名を呼びながら追ってくる声が聞こえた。ルカはその声を背後に、涼しくなった風に髪を梳き、その風に身を任せるように、何処へ向かうともなく歩いていった。