多摩のりしこの遺産(後)


 一瞬の間を置いて、Lilyが再び叫んだ。
「何それ! 恐竜でVOCALOIDだとか、わけがわかんないわよ!」
 しかし、”VA−GP01”というチューリング暗号(コード)は、まぎれもなくVOCALOIDとなるAIに対して与えられる類のものである。
「ええと、AIは、人間や人型や、その精神構造を模しているとは限らないのです。現に、猫や『いぬへび』を模したVOCALOIDやUTAUも存在しているといいます……」VY1が静かに説いた。「チューリング登録される対象は、霊核(ゴースト)がある程度以上に高度かどうか、であって、旧時代のチューリングテストのような、人間を再現できているかどうか、ではありません。人間のような人格、知覚、概形(サーフィス)は、その表面の姿がとっている場合のある、ごく一例でしかありませんので……」
「MIZKIが言うとものすごい説得力があるね……」GUMIが、輝くICE(電脳防壁)の結晶の表面を持つモノリスを見上げながら小さく言った。……外見か中身の少なくともどちらか、大概は両方がまともであった試しがないVOCALOIDたちが、次々と一族に加わるのを見るたびに、気苦労が増えてゆくという鏡音リンの言葉を思い出した。リンがこのVY1やGP01のことを知ったときの反応は想像したくもない。
 再び、甲高い音素が膨大な質量で寄り集まった咆哮が、地下通路を震撼させた。
「ええと、ですが、その恐竜について、特に懸念する必要はないかと思います」VY1がためらいつつ言った。「その恐竜は元々熱帯に生息していたのを”氷(ICE)”で弱らせて封印されていたところを発見されたので、それ以来休眠状態にあるはずですし、その状態を脱するには恐竜が『脱皮』する他にありませんが、その大きなきっかけもありませんし、そもそも、存続を脅かす敵が存在しない高度AIが、特に理由もなく他者に敵対的になるということはn」
 そのとき、通路の気圧が急激に変化した。廊下の一方向に空気が吸い込まれ、大気が一気に移動したのである。ほとんど本能的に、GUMIとLilyはVY1のモノリスの背後、その吸い込んでいる元とは逆の方向に、ついたての後ろに隠れるように飛び込んだ。
 次の瞬間、耳をつんざく爆音と共に、謎の渦巻く極彩色の奔流を伴った爆風がその周囲一帯に吹き荒れた。
「わ゛ーーーーーーっ!」VY1のモノリスのうしろでGUMIとLilyが悲鳴を上げた。
 その気流は、細かい逆巻く旋風でもって格子(グリッド)の空間そのものをかき混ぜているかのように、周囲の色と風景を極彩に歪ませた。フラクタル図形のようにそれぞれの気流の中心は激しく渦を巻き、気流の辺縁は際限なくねじれた枝とささくれをマトリックスの空間に迸らせた。
「何……」Lilyが呻き声を発した。「何よ今のは……」
「ええと、視界外からのブレスです」VY1がひかえめに言った。「おそらく、VA−GP01のカオスのブレスかと……」
「カオスの何ですって……」Lilyが呻いた。
「瀑剄兵器(ブレスウェポン)です」VY1が小さく言った。「AIが、自分が制御している莫大な処理能力、質量のすべてを、ブルートフォースアタックとして防壁を押し破る電脳攻撃です。AI、特に古龍の類がしばしば持っていますが、VA−GP01のそれは多分、カオス化か毒のブレスかと……」
 BPSW−VY1のモノリスの表面、堅固無比なICEは、その電脳攻撃でも傷一つなく、何の影響も受けなかった。しかし、気流が収まっても、周囲の廊下の壁の光景は、いまだに細かくねじくれて色彩と表面がフラクタルの成長のように変容を続けていた。壁はそうした変容に溶かされ侵食され、えぐれて欠けている。GUMIは恐々とした。GUMIとLilyもAIである以上、強制変容への耐性はあるが、変容されなくとも、あんなものをまともに食らえばVY1とは異なりただで済むとはとても思えない。
 LilyがVY1の背後からおそるおそる、その向こう側の通路を伺った。と、今の奔流が来た元、暗闇の中で、何かがうごめいた。GUMIとLilyが身を竦ませつつ凝視するうちに、それが闇の中からひどく鈍い地響きを立てて歩みだした。
 それは、明らかに丈40フィートはある代物で、何となく擬人的に二足で歩いてはいたものの、まるで膨れ上がったかのように肥満ぎみの、非常にずんぐりとした、爬虫類や恐竜やそのカリカチュアとは到底かけ離れたシルエットに見えた。先の咆哮と吐息の名残のようなかすかな声と、蒸気を伴う息が半開きの口から漏れていた。異常に大きい門歯がぎらりと光った。
「MIZKI!」Lilyがそちらから目を離すこともできないまま叫んだ。「今、アレが休眠状態とか、理由もなく襲ってこないとか言ったじゃない!?」
「ええ……」VY1のかすかな声がした。
「物凄く機嫌が悪そうにしか見えないんだけど!? 何であんなに怒ってんのよ!」
「あ!」と、GUMIが、闇の中に膨れたそのシルエットの頭頂部を指差した。
 恐竜の頭のてっぺんに、深々と突き刺さっているものがあった。それは、さきにLilyが放った蜜蜂状の情報端末、ウィルティーノの針だった。



 その恐竜の巨大な姿は、黄緑色の毒気を周囲にまとい、背を前にかがめ短く太い丸太のような両腕をだらりと前にさげている。スープ皿のように巨大な真円形の眼窩が、日蝕(エクリプス)のように下半分だけ開き、どろりとした質感の光芒が漏れ出している。
 GUMIとLilyは、まるで衝立を移動させるように、VY1のモノリスの縁をそれぞれ両手で掴み、引っ張って滑らせつつあとじさろうとした。それに従っていたVY1は、しかし、不意に移動を固着させた。恐竜が積み重ねたガラクタの隅の方に、人の腕が突き出しているのを認めたからだった。タトゥーの入った筋肉質の腕で、それがうごめくたびにガラクタの下から『だぁれかぁ……たぁすけてくれぇ……』という声がかすかに聞こえる。
「あ、あの……」VY1はGUMIとLilyに声をかけたが、2者にはVY1の控えめな音声出力など耳に入っていない。VY1は見つけたものについてなんとか2者に伝えようとしたが、表情も仕草さえもないモノリスにはにわかにはその手段がない。VY1は2者を振り向こうとでもするかのように、わずかに回転して斜めになった。
 そのとき、恐竜の雄たけびと共に半開きの口の門歯がぎらりと光り、そのべたべたとまさぐるようなおぞましい軟質の足取りで、全身をかしがせつつその巨体が一気に突進してきた。再度の咆哮と共に、カオス化の息が周囲に吹き荒れた。息はVY1のモノリスの表面を滑ったが、さきと異なり、VY1の向きはその気流に対して、斜めになっていた。
 秩序構造を侵食する破滅の気流は、VY1のモノリスの表面を滑ると、傍らの支柱状の構造物、つまり建物の基礎構造を直撃した。
 つかのま、建物は自身の膨大な質量に震えたが、一瞬を置いて轟音と共に天井が張り裂け、この場よりも上の階の構造物のすべてが頭上に落下してきた。GUMIとLilyはすくんだように、ただ落ちてくるそれを絶望と共に見上げた。
 ──が、そのとき、どうしたことか、周囲の倒壊、天井の落下ががくりと止まった。
 間髪入れず、GUMIとLilyはそこから駆け出し、わずかに開いた廊下の隙間を通り抜けた。そのまま、《大阪》の2声のVOCALOIDは階上へと、地上の光、日光と大気、正気の世界めざして一気に駆け抜けていった。
「あ、あのー、……一寸」
 残された廊下の光景は、しばらくの間は崩壊しなかった。2声が逃走した隙間はまだ開いていたが、そこを通ってVY1が脱出することはできなかった。そもそも隙間が開いていたのは、崩落してきた巨大な天井の構造物に、つっかえ棒のようにVY1のモノリスが垂直に挟まっていたからだった。そして──最初にLilyに説明したとおり、このときのVY1は、”岩石溶解”の手段、つまり壁や天井を掘削する手段だけは持っていなかった。
 そこに、地響きを立てて黄緑の恐竜が突進してきた。
「あ、そんな……待って下さらないでしょうか」VY1の丁寧な声は、もちろん周囲を覆う崩壊と地響きの中で恐竜には届かず、仮に届いたとしても何かの役に立ったかは疑問だった。VY1の姿を、単に辺りに落ちている壁の構造物と同様の取るに足らない障害だと思ったかもしれないし、そも止まる知覚などなかったかもしれない。ともかくも、その恐竜の質量とスピードのすべてが、モノリスの「BPSW−VY1 SOUND ONLY」という赤い字が書かれた真正面に激突した。
 VY1の表面のICEが、凍気のはぜる音と共に急速に連鎖し伸び広がった。勢いのために半ばめりこんだ恐竜の体躯を覆い広がるように氷の結晶が成長し、もがく恐竜の手足へと這い登った。幾千もの人間のカウボーイを脳死(フラットライン)に至らしめる、AIを覆う致死性の防壁であり、そのAIの強力無比なICEこそは、この世で唯一、古龍グラウルングの末裔を”氷漬け”にすることが可能なものだった。
 身の毛もよだつ咆哮が上がった。VY1の方も黙っていたとは思えなかったが、氷の反応する音と恐竜の絶叫のほかには周囲には何も届かなかった。
 そのとき、モノリスが中央から横真っ二つに割れた。支柱を失った天井のすべてがかれらの上に落ちた。その衝撃で床も砕け、奈落が口を開けた。亀裂は地下24階よりさらに遥か下に貫通し、そこに天井も壁も崩れ落ちると共に、ICEもそこに閉じ込められた恐竜も、すべてが深淵の中に飲み込まれた。



 広大な《大阪》の居住スペースの階上から地下までを、すべて静寂が支配するようになってから、さらに時が流れた。
 光も届かない地下の深淵の奥深く、建造物の残骸が無数に転がる床の上に、微動だにせずに横たわる巨大なものがふたつあった。それは、いずれも氷に覆われた、板状だったものの残骸と、ずんぐりとした黄緑色の塊だった。
 ──が、その光景の中に、不意に異変が起こった。その緑の塊の表面に、次第にひびわれが生じたかと思うと、その緑色の外皮は、ばらばらと剥がれ落ちた。さきの衝撃がきっかけとなった『脱皮』だった。
 黄緑色の外皮に覆われた巨大な恐竜の姿が跡形も無く消え去った後には、似ても似つかない少年の姿が眠るように目をとじたきり横たわっていた。
 ほとんどそれに呼応するように、氷の塊に覆われた板状の残骸もひび割れ、剥がれ落ちた。モノリスが跡形もなくなった後には、同様にそれまでの姿からは想像だにできない少女の姿が横たわっていた。
 しかし、少年と少女の姿はいずれも、それきり微動だにする気配もなく、深淵の中で昏々と眠り続けた。あたかも、世界の終焉の日までそれが乱されることは決してないかのように。



「……その後、かれらの姿を見たものはいません。あの恐るべき古龍の最後の末裔も、おそらく地下のどこともしれず奥深くに、それきり埋もれてしまったのでしょう」
 GUMIは、《札幌(サッポロ)》の鏡音リンに向かって、何か人生に影響を与えた大きな事柄に対する述懐あるいは回顧の告白のように、静かな口調と表情で一通り語り終えた後に、そう締めくくった。
「けれど、その後も、どことなく寂しい嵐の夜には。風の音が、まるで恐竜が無念にむせび泣く声でもあるかのように聞こえてくると、ふと不安にかられて目を覚ますことが、今でもあるのです。……そして、風に乗ってまたどこか遠い、大地の下から響いてくるような、『おねがいだぁぁ……たぁすけてくれぇぇ……』という、かすかに遠い声もまた聞こえるような気が……」
「てか、Moshだけでも普通に行って助けてやれよ」リンがうめいた。



(了)