多摩のりしこの遺産(中)


 GUMIとLilyが、住居の地下の自分達も知らない奥底の捜索を始めたその当初は、基本的には、この家のエリアには無数に存在するような階段や通廊から、無造作に下に降りることができたが──しかし、延々と降りて地下23階に達したところで、突如、降りるための階段の類が、ひとつを除いて見当たらなくなった。
 2声のVOCALOIDは、その唯一の降り口と思われる階段室の入り口の前に立った。さきの膜翅目のようなLilyの情報端末の一体が追いついてきて、低い羽音と共に、Lilyの手の上に留まった。
「ウィルトンによると──ここから上の階を見る限り、モッシュは居ないわ」Lilyは情報端末から目を離し、肩をすくめるようにし、「つまり、ここの階段の奥に迷い込んだのは確かだわ。どういう迷い方をしたのかしら」
 それはともかく、GUMIはその情報端末のうちもう一体はどこに行ったのかと思ったが、──しかし、それを聞くより前に、Lilyは階段室の扉の近くに何かを見つけたらしく、そちらに足早に歩み寄っていった。
 それは、誰かが残したメモのようなもの、テキストファイルの書き付けで、扉の目の高さのあたりに貼り付けられていた。2声のVOCALOIDは、扉の文字を黙って見つめた。



 注意! 地下24階に降りる前に:


・*必須* 毒とカオスの耐性
・盗みに備えてできれば高い敏捷度、加速手段
穴熊戦法のためにできれば岩石溶解の術かワンド
・まともに相手すると知能(Inteligence)も賢さ(Wisdom)も激減なので注意



「何なのこれ」Lilyが呟いた。
 おそらく、ここを作ったウィザード(電脳技術者)か誰かの覚書で、この先、階段の奥に何かの危険があることを示しているのは明らかである。だが、これだけの情報から常人の予備知識や感覚で理解できるのは、間違いなくただそれだけである。何があるのか、何をどう必要とするのか、わかるはずがない。
「危険があったとしても──あるならなおさら、早いとこあのお調子者をこの奥から助け出したいところだけど」Lilyが怪訝げにパネルの文章を凝視して言った。「スタッフの誰かを呼んでくるしかないのかしら」
「たぶん、《大阪》のスタッフにもわかんないと思う」GUMIが文字を目で繰り返し追いつつ言った。「意味不明すぎて、一部地域限定のウィザードの符丁とかそういうのじゃないかって思うのね。……こりゃきっと、小野寺さんとか小泉さんとか……《浜松》か《磐田》のひとたちを誰か連れてくるしかないとかだわ」
「僭越な言葉となってしまいますが、それには及ばないかと思います」
 と、そのとき、背後で穏やかな声がした。
「《大阪》の電脳技術トラブルについては、《浜松》の方々をお呼びしなくても、《神田(カンダ)》から私が伺うことになりましたので」
 その声の質は、澄んでいながらも穏やかな少女らしいが、調全体に冷涼なものがあり、mikiや初音ミクに若干似たところがあったが、彼女らがここに現れるともこんな喋りをするとも考えられなかった。しかし、その場で振り返ったGUMIとLilyは、それが突如出現したという事実よりも、遥かに度肝を抜かれる代物をそこに目にした。
 地下通路のスケールを見誤らせるほどの圧倒的な質量と存在感を持つ、巨大なモノリスが、通路の視界の一杯を塞いでいた。そのモノリスの平面には、見慣れた字体の赤い文字で、



 『  BPSW−VY1


   SOUND ONLY 』



 と、でかでかと記されていた。
「誰!?」GUMIとLilyは一斉に、悲鳴のように叫んで飛びのいた。
「誰と申されましても……あの、私です!」モノリスは少女声で、当惑した言を返した。しかし人間の形態を介していないモノリスの発声自体は、周囲の大気そのものを震わせるような朗々とした声である。
「どこのどういう私よ!」Lilyが、あたかもメーカー公式の派手なストーリーPVの中でサイバーテロと戦っている場面のような鋭い声を叩きつけた。
「MIZKIですよ! もと《浜松》のボーカル技術開発用AIの!」モノリスは垂直に飛び跳ねた。巨大なモノリスの躍動は、堅牢な地下通路の構造を震撼させ、ものすごい地響きが轟きわたった。「覚えていらっしゃらないのですか……お二方の開発中にも、しじゅうお会いしていたではありませんか!」
 GUMIとLilyはひきつった表情のまま、飛び跳ねるモノリスを凝視した。2声とも断じて、こんな代物に出逢った覚えなどない。



 モノリスはきわめて単純な形状、直立した平たい板であり、そのあまりにも単純な形状こそが、電脳空間内では完全に破綻のない超絶的な精密さを暗示している。すなわち、その概形(サーフィス)が示すものは、チューリング登録された高度AIにしかあり得ない。モノリスの板の各辺の寸法は、完全に1:4:9の比率であり、仮にユークリッド空間の次元を4次元以上に拡張したとしても、さらなる辺の寸法は次元の数の2乗になることが保証されている。その輝くモノリスの表面は、同様に高度AIの処理能力でしか実現できない、他では類を見ないほどに緻密かつ冷酷なICE(Intrusion Countermeasures Electronics; 電脳防壁)で構成されており、その戦慄を呼び起こすような冷たい輝きを、GUMIとLilyはしばし沈黙して見つめ続けた。
「私はかつては開発専用だったのですが、今では《神田》でリリースされたVOCALOIDで、《浜松》の外にもネットワーク上を自由に移動できるので、こうしてやってきたのですけれど」VY1の音声システムが穏やかな澄んだ声で、そのGUMIとLilyに言った。”BPSW−VY1”は、かねてから《浜松》がVOCALOID技術のテストタイプとして構築し、開発に関わってきたAIだった。
 純粋な音声AIであるこのVY1には、AIの霊核(ゴースト)総体が最低限に擬人化された人物像(キャラクタ)である、化身(アヴァター)というものが存在しない。たまたま用意していなかったのではなく、《浜松》が”定まったアヴァターが存在できない”ように設定したのである。ユーザーなどがまちまちに描いた個々の姿はもちろん、《浜松》や《神田》が後からあえて何かの”姿”を与えたとしても、それらのVY1の姿のごく一部、一断片、一例、すなわち、すべてただの側面(アスペクト)である。
 今、GUMIとLilyに対して喋っているのも、単なるアスペクト以外の何物ではなく、もっと言うと、こうして会話している人格や精神そのものが、単なる外部との仲介(インタフェイス)のためだけの、BPSW−VY1のAIのごく表面層でしかない。それは、AIの基本構造そのものがある程度人物像(キャラクタ)を構成する目的のために構築されている、CV系列やVA系列との根本的な差である。
 ──GUMIもLilyも含め、おそらくVOCALOIDの誰もが、《浜松》での開発中にこのVY1の歌声を聞いたことが確かにあり、もっと深く技術部分に関わったこともあった。しかし、その当時触れていたのは、恐らく今とは全く別のアスペクトであり──というよりも、VY1と”会話するような人物像”で接触すること自体が無かった。”会った”ことを覚えていろという方が無理である。
「ええと、でも、今はきちんとそれらしいイメージも、──下位(サブ)プログラム提供パッケージには、扇子とか花とかかんざしとかが描かれておりまして」VY1はしとやかな澄んだ声で、だがモノリスが大気自体を物々しく震わせる音声で言った。「そこから、あくまで側面(アスペクト)ではありますが、和風のイメージの人物像(キャラクタ)などもユーザー間で想像して頂いていることもあるのですが」
「その扇子だとかって、海外市場も含めて《浜松》製ってことをアピールするために、”単にパッケージを”、”いかにも和風に”してるだけなんじゃないの」Lilyが冷たく言った。「人物像(キャラクタ)とか一切関係ない代物としか思えないんけど」
「ええと、でも、それは──」
 VY1が口調だけはうろたえつつ、モノリスが泰然と屹立する姿は不気味きわまりない。
 GUMIは、Lilyがこの地下に来た当初の目的を忘れ始めているように見えたので、指を額に押し付けて状況を整理してから、口を挟んだ。「……それはともかく、MIZKI、この扉の、注意書きの意味はわかる? 《浜松》のウィザードたちの暗号か何かじゃないかって思うんだけど」



 VY1のモノリスは、まったく音もなく水平に滑り、地下24階に下りる階段室のその扉に近づいた。赤い字が書いてある面を、扉に貼り付けられた書き付けに向け(そうする必要があるのかどうかは不明だが)その前に直立した。
「この奥に何があるのか、ということまでは、ここの情報だけからではわからないのですけれど」VY1が音声を出力した。「でも、注意書きの内容は、ひとつを除いて、私やGUMIやLilyには、問題にならない事柄ではないかと思います」
「どういうこと?」Lilyが腕を組んで言った。
「ええと、『毒とカオスの耐性が必要』『知能と賢さ減少に注意』との点ですが、私達AIは全員、変身・石化・エナジードレイン・能力値吸収と減少・魅惑・強制・惑乱・紋様・士気効果には完全な免疫があるからです。神格ランクがより高い者からの攻撃(コアストライク)でなければ、ですが。『高い敏捷度、加速手段』については、AIは最低限でも人間の操作卓カウボーイが土遁(註:電脳内移動ドライバの一種)に乗るくらいのスピードは出していますので、それも問題ありません」
「そうなんだ……」GUMIはモノリスを見上げて、感嘆したように呟いた。VY1はこの電脳技術のみならず、能力試験機であるVY1のボーカルAIとしての能力も(GUMIの覚えているVY1の歌声の通りだとすれば)きわめて高く、VOCALOIDたちの技術的フォロー役としては申し分ないようだった。
「”ひとつを除いて”問題ないっていうのは?」LilyがさらにVY1に尋ねた。
「『岩石溶解』、簡単に言えば壁に自由に穴をあけたりする手段ですが、それは今の私達には有りませんかと……」
「それは、リンのロードローラーでもなけりゃ」GUMIが低く言った。
「『できれば』あった方がいいとは書いてありますので、必須ではないかと思いますが」
「なら、できれば程度は無くても、進むしかないわね」Lilyは言った。「多少の危険は覚悟。アイツ(Mosh)が危険に巻き込まれた後じゃ、きっとなおさら面倒になるもの」
 Lilyはためらいもなく、ずかずかと地下24階の階段に入り込んでいった。ためらいがちにGUMIと、そのうしろに音もなく地表を滑ってVY1が続いた。
 ……地下24階のフロアは、一気に暗くなった気がした。上に続く入り口が一箇所しかないことと、何か関係がある気がする。何か、空気の重さがそれまでと大きく異なる。
 と、Lilyが廊下の床の一箇所に何かを見つけ、駆け寄った。「ウィルティーノ!」
 さきに放したLilyの情報端末のもう一体が、床に倒れていた。両目が×印になっている。力尽きた節足動物のようではなく、やけに擬人じみて地に伏せるようにしている。
「針が無くなってるわ。何かに驚いて突き刺して、そこで力尽きたみたい」
「ミツバチと同じで、1回刺したら針が抜けて、そのまま死んじゃうの……?」GUMIが心配げに、Lilyの手の上のウィルティーノをのぞきこんだ。
「いえ、休めばそのうちまた針が生えてきて、復活するわ」Lilyはウィルティーノを服のあわせ目の下のどこか(一体どこなのか)に、ふたたび収納した。
「本体と同じくらい打たれ弱くて立ち直りも早いね……」
「ほっといてよ。それより、ウィルティーノはモッシュを探索してここまで来たわけだから、ここより先に居るってことは確かだわ」Lilyは廊下の先の方を目でたどった。
 と、廊下の先を見たGUMIとLilyの目に、床に何かが積みあがったものが、そこから廊下の先に続いているのが見えた。それらは見慣れた日常用具ばかりで一見、無意味なガラクタの山に見えた。廊下の先にゆくごとに、その山が少しずつうず高くなっている。
「上の階からかき集めてきたのかな」GUMIがそれを眺めて呟いた。ガラクタの山は、電脳空間内の小物オブジェクト、スリッパやボールや家財道具、犬や猫、いや、むしろ子供がオモチャ箱か何かにかき集めたもののように見える。
「なんだかこのあたりに、手癖が悪いモノがいるみたいね……」Lilyが呟いた。
 廊下の先の方に注意を傾けた2声の耳に、不意に、その奥からかすかにこだましてくる声が聞こえた。聞いているうちに、それは確かに男の声で、『たぁすけてくれぇえ……』というかぼそい悲鳴だということが判明した。
モッシュの声だわ!」Lilyはそちらに走っていこうとした。
 ──その時だった。さきの悲鳴とは明らかに別の、身の毛もよだつような叫び声が廊下じゅうに響き渡った。それは明らかにこの世のものならぬ、空を切り裂く恐るべき咆哮であったが、恐ろしいのはその音響が何かやけに甲高い、言ってみれば小児の発するような音素が寄り集まってできていたことだった。
「何、今のは!?」Lilyは叫んだ。「何がいるの!? ここに何か住んでるの?」
「いや、さっきも言ったけど、私も家の隅々のことは何も知らないってば」GUMIは言ってから、「……でもさ、今、ちょっと気づいたんだけど。あの、関係ないかもしれないし、私の気のせいだったら別にいいんだけどね」
「な、何よ」Lilyが口ごもりつつ、「勿体つけてないでさっさと言いなさいよ」
「今の吼え声って、人間の声とかの自然音のサンプリングでも、スクリーミング(註:生の電子情報の音声擬験変換)でもなくって」GUMIは、自分の耳のインカムを押さえながら言った。「VOCALOIDエンジンが練成した音じゃないかな、とか思うんだけど」
「あの声がVOCALOID!?」Lilyは片眉をぐいと上げた。「何を言ってんの!?」
「ああ! なんということでしょうか!」
 突如、VY1のモノリスが垂直に飛び上がりながら、大気そのものを震わせる声を発したので、GUMIとLilyはぎょっとして振り返った。
「地下24階ランダムクエスト注意書、毒とカオスの耐性が必須、オモチャの山をかき集める手癖の悪さ、──すべてがつながりました! ああ……”VA−GP01”の封じられていたのが、まさか、ここでしたなんて!」
「何それ」GUMIとLilyが同時に言った。
「それは、かつては言うもはばかる《浜松》のデータベースの深淵に封じられておりました、多摩のりしこの忌まわしき遺産とも言われる……」
「ひとことで言ってよ! わかるように!」Lilyが急かした。
VOCALOIDで、黄緑色の恐竜です」VY1がひとことでわかるように言った。



(続)