チャットの赤い人

 うっかりそのエリアに迷い込んだとき、鏡音リンとレンは、よりにもよってあまりにも嫌過ぎる所に来たらしいことに気づいた。
 電脳空間(サイバースペース)ネットワーク上の公共エリアのひとつ、公園のような風景の仮想空間のそこでは、無数のアベックたちが、人目もはばからずいちゃついていた。
 それだけで充分に嫌過ぎるのだが、かの動画サイトで電脳”あいどる”としておびただしい数と種類の”下世話な仕事”をこなす羽目になっているリンとレンにとっては、単にそれだけなら、ひるむというほどのことではない。
 ──問題は、その公園のアベックらが全員、VOCALOIDの姿をしていることだった。
 ほぼあらゆる男女のVOCALOIDがおり、一種類のVOCALOIDだけでも膨大な人数がいた。ただの色違いや亜種もマイナー組もいる。そして、それらの男女の相互の組み合わせも、ありとあらゆるものがいる。
「なんだこれ……」束の間、嫌がるのさえも忘れ、まずその光景の異常さにたじろぎつつ、レンが呻いた。
「……なんか、ちょっと聞いたことがあるんだけどね」リンもなかば当惑した表情のまま、小さく言った。「たぶん……ここって、『VOCALOIDなりきりチャット』の類のスペースだと思う」
 人間が、電脳空間内でどんな概形(サーフィス)をとるのかは、ある程度は自分で選択できる。基本は自分の物理空間での姿と同じで、あえて変更する者はさほど多くないが、化粧感覚で変える者や、すっかり別人の姿を選ぶ者も、珍しいというほどのことではない。そして、他ならぬネット上で人気の”あいどる”であるVOCALOIDらにそっくりの概形(サーフィス)にも需要は多く、それらはたやすく入手できた。
 そして、今リンの言ったそれらのチャットスペースとは、そんな人間たちが、互いにVOCALOIDたちに扮してなりきり、多分に”VOCALOID同士の対話”を”疑似体験”する場であり、──そんな中でもここは、相当にきわどい類の場所であるらしい。
 まさに当のVOCALIOD本人らにとっては、あまりにもひどい光景なのだが、反応すること自体ができず、リンとレンはしばらくその場に唖然として立っていた。



 と、ついさっきまでベンチでKAITO(のうちの一体)と絡んでいたMEIKO(のうちの一体)が、こちらに気づくと、近づいてきた。
 ぎょっとしたリンとレンが、急いでその場を離れようと反応するよりも前に、そのMEIKOが二声に言った。
「そこのアンタたち、何してんの、こんな所で」
「……い、いや失礼しましたすぐに行きますから」リンがあとじさった。
「ボクら、ええと、別にVOCALOIDなりきりに参加とかする気は」レンが言った。
「なりきってどうすんのよ、本物のVOCALOIDでしょアンタ達は」
 リンとレンは、まじまじと目の前の人物を凝視した。
「ちょ、ちょい待ち、もしかして、この姉さん、本物!?」
 リンは信じられないといった表情のまま、しかしアームカバーの操作卓(コンソール)を操作した。概形(サーフィス)だけからは、それが何者なのかまでは簡単にはわからないが、リン達AIにならば、いくつかの空間内情報やそこからのある程度の推測ができる。目の前の人物の攻殻(シェル)の大質量情報は確実にAI、セキュリティの強さ・多様さは間違いなく第一世代VOCALOIDで、種々の判断材料からは、MEIKO以外には考えづらい。目の前にいるのは、人間のなりきりでなく、”本物のMEIKO”のようである。
「てことは、もっかして、……アレも本物の兄さん!?」レンはさっきまでこのMEIKOといちゃついていた、公園内の(幸いにも、今はかなり離れた場所にある)ベンチの、KAITOの姿を指差して言った。
「いんや、アレはニセモノ、てか中身が人間のなりきり」
「てか……何やってんだ……」リンがうめいた。「何てとこで何やってんだ……」
「何って、別に騒ぐほどのことは何も。ここのチャットはこれでもそんなに露骨な方向にまではいかないし、ハードな方向にまではいかないし」
「露骨でハードな方向ってどんな方向だよ!」リンは叫んだ。「てかアンタはホント何やってんだヨ!」
 何を好き好んで、本物のVOCALOIDが、人間のなりきったニセモノとやらが集う場所にまぎれこんで、そのニセモノとやらといちゃつかなくてはならないのだ。
「何って、もちろん歌のリサーチ。恋愛ものの歌の着想と、あと、むしろ需要のリサーチの方が大きいかも」
 MEIKOは平然と答えた。
「ここに来る人間たち。自分自身じゃなくて、VOCALOIDの相互の愛情にすりかえて、それも特定のVOCALOID同士のそれ以外に感情移入できないっていう一種独特の心理。そういう感情を抱いてる人間が、いったいどんな擬似体感、どんな擬験(シムスティム;全感覚擬似体験)を望んでいるか。もとい、歌、音を受け取る側は、VOCALOIDから与えられる、どんな体感を望んでいるのか。……こういうチャットルームほど、そういう感情がここまで濃厚に集まってる場所もないし、人間の生の感情や欲望がじかに知れる所、集まってる場所ってないのよ」
「だからって!」リンはさきにMEIKOと絡んでいた、(人間のなりきった)KAITOの一体の姿を指差し、あたりをはばかるのを忘れたかのように叫んだ。「なにこんなとこでわざわざニセ兄さん、てか、人間の男漁りしてんのヨ!」
 リンの”露骨でハードな方向”すぎる発言に、レンが飛び上がった。
「男漁りって──あれ、女よ」
 MEIKOは平然と言った。
「あのKAITOの概形(サーフィス)をしたのも、中身は女。……あと、ここにいる『男VOCALOIDの格好したの』も、全部、中身は人間の女。”VOCALOID同士の男女の絡み”自体が大体女のジャンルなのよ。だから、他のチャットルームでもほとんどそうだけど、なりきってるのは男女VOCALOIDのどっちも、全員女」