最終防壁(後)


「──もう少し」MEIKOはプロデューサーに言った。これはMEIKOがしばしば、他者にさらなる説明(多分に、MEIKO自身以外の周りの理解のためを含めて)を促すときの言い方である。
 プロデューサーが、自社のICEと”氷破り”の接点を指差して言った。「この”氷破り”は、城壁のコア指令氷(コマンドICE)が持っている、異常を監視する能力を、似非(グリッチ)システムで欺瞞しながら、指令氷を溶解している。……だが、一部の信号、指令氷の溶解でICEの他の構造に及んだ影響、例えば、容量計算の不一致などの情報が一部、周りに漏れている。そもそも、ICEが攻撃を受けていることに我々が最初に気づいたのも、その漏れた信号の異常のためだ」
 リンが、自身のAIの走査(スキャン)能力で、ICEの”氷破り”が侵食している周辺を(氷破りの炎自体は直視しないようにしつつ)見てみると、陽炎のような周囲の光景の僅かなゆらめきと、まるで重力方程式の概略図のごとく格子(グリッド)の線がわずかに歪んでいるのが見える。
「そりゃ何か壊したら、周りに一切影響がないってことは、普通は無いんじゃないの」リンが接点を見て言った。
「軍用”氷破り”は『普通』ではない」プロデューサーは言った。「本物の軍事システムの”黒い氷(ブラックICE;大規模殺戮用の攻性防壁)”を破る際には、さもなくば致命的な結果になるからだ。軍用”氷破り”には、ICEを破りながら、周囲をいわば沈黙させて、漏れた信号や警報もすべて押さえ込む機能も必ずある。だが、にも関わらず、この仕掛け(ラン)の侵入者は、その肝心の機能を同時起動していない」
「BAMAとかの、並以上の腕のカウボーイなら当然のやり方を外してるってことね」MEIKOが言った。
「溶解や変装以外にも、明らかに今は同時起動されていない機能や、起動が遅れている機能がある」プロデューサーは言った。「この”氷破り”を制御している電脳空間(サイバースペース)デッキそのものの処理能力が足りずに、同時起動ができないのか。あるいは、デッキの使い手が同時に制御できないのか、さらには沈黙プログラム機能の存在自体に気づいていない、つまり”氷破り”の機能自体を把握できていない、侵入者自身の電子戦能力が足りないかだ。今回の侵入者は、装備にせよ自身の能力にせよ、『操作卓カウボーイ』と呼べるような者ではないな」
「要するに”氷破り”は掛け値なしに凄いけど、操ってる本人は大したことはないってことか」リンが言った。「でも、なんでそんな大したことがない侵入者が、こんな凄い”氷破り”を持ってるわけ」
「実は、カウボーイ連中の間ではよくあることだな」プロデューサーは言った。「どこかの大物が、怪しげな経緯で手に入れたソフトウェアの試験のために、駆け出しの”腕自慢(ホットドガー)”にそれを渡す。”腕自慢”はソフトウェアの威力と、それ以上に自分の能力を試すために、身の程も知らずに、どこかのICEに切り込む。標的の選択には、たいして意味がない。……それだとすれば、今回のこの侵入者というのは、自身は我々や社やVOCALOIDに対しては、特に含みは無い者だろう」
「あるいはその侵入者のさらに背後の”どこかの大物”が、どこぞの広告代理の巨大企業(メガコープ)か、ってところね」MEIKOが言った。「拾い物の”氷破り”の切れ味を試してくれさえすれば、別に失敗でもよし。成功で、にっくきVOCALOIDのスタジオに大損害を与えてくれればなおよし」
「上の大物について辿るのはかなり難しい」プロデューサーが静かに言った。「ただし、”氷破り”がICEを破るのに失敗すれば、そこから逆探知して経路や背後、つまり上の大物についてもかなりわかるだろう。つまり、失敗すれば、上の大物は証拠を消そうと、下を切り捨てようとする。そうなれば、下の”腕自慢”はいささかろくでもない目にあうことになるだろうな」
「じゃ、侵入者も命がけで仕掛けてきてるの?」リンが尋ねた。
「いや、大半の駆け出しの若者の”腕自慢”は、裏のそんな事情は想像もしていない」
「そんな腕自慢は”いささかろくでもない目”にでもあってしまえば良いんです」ルカが、自分の焦げた髪の先を見つめつつ、平坦に言った。
「ルカ、それ、VOCALOIDの台詞とは思えないわよ」MEIKOが言った。
「今回は、そうはならないだろう」プロデューサーが言った。「この”氷破り”がICEを破る仕掛け(ラン)自体は成功して、”氷破り”のソフトウェア自体は、上の大物についての証拠ごと消滅する。その後、さして危険でない侵入者本人だけを、我々が押さえることになるだろう」
「危険ではないとはいっても……一番固いセキュリティよりは内側に引き込むわけですから、不安が……」coPが怯えたように言った。
「まぁ、その内側に、これから罠を仕掛けるんでしょう。幸い、どの辺りに穴があいて入ってくるかは、既にわかっているわけだし」
 MEIKOが社のICEのそのあたりを見て言い、
「それじゃ、まずは、囮データを置いておびき寄せて」MEIKOが懐から、写真のような画像ファイルを取り出した。「このVOCALOID界隈きっての重要ファイルで……」
「何それ」リンが、MEIKOの手のファイルを見上げた。
「何って、もちろん、公式デザイナー謹製の初音ミク全裸変身シーン映像。単行本未収録」
「やめれっつぅの」リンはそのファイルをMEIKOの手からひったくってから、レンが(さきほどルカに吹き飛ばされたきり)まだのびており、今のファイルを見なかったことを素早く確認した。「この話でよりによってソレを出す!? てか今回ばかりはその手のネタ抜きの話だと思ってたのに油断も隙もないとか!?」
「囮の経路を作ったり、手の込んだ罠を張っているほどの時間はない」プロデューサーが城壁のすぐ内側を、ICEの表面に沿った宙空を文字通り滑るような、水遁を借りて移動しながら言った。「向こうがこの中で自分から姿を暴露するような、簡単な地雷を展開する程度だな」
 ……しばらく後、ICEの城壁の内側のログインエリア近くのスペースで、ICEの城壁の内側から、その一箇所が”氷破り”によって貫通されつつあるのが見えた。ICEの結晶の壁と、ルカの張った茨の防壁がしおれて排除されるのが見えた。人が一人通れるほどの穴が数ミリセカンドの間あいてから、ICEを溶かしていた炎熱球が消失した。全員の手におえないほど凶悪な、1回限りの”氷破り”が、その機能を終えたのである。
 そのまま沈黙が流れた。侵入者はさきの穴から、このスペースに入ってきたのは確実だった。しかし、その姿が見えなかった。”氷破り”による隠匿は解除されたが、自前のステルス・プログラムで、身を隠しているらしい。
 しかしながら、おそらくは侵入者の側からも、内部の保安プログラムどころか、何も見えはしなかった。その内側のエリア一体は、《秋葉原》のプロデューサーが展開した遮蔽用の偽装プログラムで覆われ、格子(グリッド)を流れるわずかな光子以外は何も見えない、暗闇となっていた。
 しばらくの間、沈黙と暗闇だけが辺りを支配していた。
 ──カチカチと音がした。侵入者は、何も見えない周囲を探るために走査(スキャン)や偵察のプログラムを起動しているようだった。
 しばらくそれが続いたが、──突如、スペースの真ん中に、侵入者の姿が出現した。
 この暗闇の偽装プログラムは、この周辺の光景を隠匿していただけでなく、侵入者が走査や偵察でデータを収集した際に、収集されて侵入者のシステムに切り込み、そのステルス・プログラムを解除したのである。
 同時に、暗闇の偽装プログラムも解除され、一帯が明るくなった。侵入者の姿は、駆け出しの腕自慢であるという予想通り、若者のようだった。
 ここで、侵入者の走査(スキャン)に反応して解除プログラムが起動した場所は──すなわち、侵入者が出現したその場所は、coPの目の前だった。coPと侵入者は、真っ向からばったりと出くわした。
「げひいいいいいいいいい!!」
 coPと侵入者はいちどきに叫び、これもほぼ寸毫の狂いもなく同調してとびのいた。
 coPの方が悲鳴を上げたのは、よりによって自分が出くわしてしまったことに驚いたという、本当にただそれだけの理由だった。しかし、侵入者の方はといえば、目の前に黒いボロマントの鬼神(ダイモーン)じみた緑色の怪物(しかも、外見以外の他の情報が示すのは『人間』だというもの)が出現し絶叫したことに対する、完全な恐慌だった。
 侵入者は身を翻すように全力で背後に飛びのいた。それは実のところ相当な反応速度で、必ずしも予想されていたほど駆け出しの腕自慢にすぎない能力ではなかった。しかし、その速度で飛び退いた背中が、背後のICEの壁に激突した。1回きりの”氷破り”はすでに機能を失い、侵入したときの抜け道はふさがっていたのである。
「山下さん!」レンが思わず、その怯えたままのcoPの背中に向けて叫んだ。
 その声に逆に慌てたように、coPは黒マントを翻し、魔神かと思えるような仕草で両腕を上げた。応じて周辺のマトリックスの霊子網(イーサネット)が盛り上がり、格子(グリッド)の隙間に一斉に電位差が生じた。静電気で黒いマントの毛羽立ちが一斉に逆立ち、緑の怪物の姿は数倍にも膨れ上がったかのように見えた。恐慌をきたしその場から這い出ようとする侵入者の背中に、天地を揺るがすようなもの凄まじい雷鳴と共に静電フィードバック電脳攻撃(ブレイクウェイア)の閃光が炸裂した。
 侵入者は床面の格子に投げ落とされたかのように叩きつけられ、しばらくの間、くすぶるような硝煙を発し続けていたが、一体どうなったのかよく見えるよりも前に、その姿はかすかに揺らめいて、唐突に消滅した。
「消去したの!?」レンが今のcoPの恐ろしげな攻撃を思い出してうめいた。
「いや、安全装置(ヒューズ)が作動して、離脱(ジャックアウト)しただけだな」プロデューサーは侵入者の消えたあとの空間に近づいて言った。
「電脳空間から離脱ってことは、逃げられたってこと?」リンが尋ねた。
 プロデューサーは、その周辺に出た情報ログを引き出し、
「安全装置の作動までのタイムラグの間に、今のブレイクウェイアのフィードバックが直撃し続けて、侵入者の展開していたデコイ10機と身代わり防壁3基を吹き飛ばした、とある。……本人の苦痛と金銭的損失は、天井知らずだろう」
「ええ〜と」coPが口ごもった。
 リンとレンとルカが、やりすぎだとでも言いたげに、その言葉をなかば予想して、プロデューサーの方を見た。
「まあいい」が、プロデューサーは言った。「侵入者の経路情報なども取ったので、これを上の巨大企業にもわかるように流すこともできるが──”腕自慢(ホットドガー)”は、あんな目にあった以上は、二度とここに侵入しようなどとは思わないだろう」
 MEIKOが呟いた。「てか、ICEの城壁よりもルカの防壁迷路よりもミクの貴重映像よりも村田さんの張った罠よりも、『山下さんの見かけ』が一番恐ろしい防壁だったっていうこの締めは何なのかしら……」