最終防壁(前)

「おおーメイコさん!」皆が、電脳空間(サイバースペース)の《秋葉原(アキバ・シティ)》の芸能スタジオのログインエリア、入り口についたとき、黒マントをまとった緑色の怪物が、そう叫びながら駆け寄ってきた。「ちょっと待って下さい!」
「山下さん?」MEIKOは細い銀色の通路に立ち止まった。背後のリン、レン、ルカもあわせて止まった。「何があったの?」
 この緑の怪物の概形(サーフィス)の持ち主は、《秋葉原》のcoP(コ(副)−プロデューサー)で、いつものプロデューサーの補佐をしていることも多いためこう呼ばれているのだが、実際は(VOCALOIDらはどんな楽曲や動画の提供や指示も受けて働くので)プロデュースの仕事の中身自体は、どのスタッフでもさほど変わらない。
 詳しく聞いたことはないが、おそらくこのcoPは、プロデューサーと同様に、BAMA(北米東岸)か何処かの電脳技術者の出身ではないかと思われた。電脳技術者の前身、かつての旧時代のハッカー文化は、電脳内での現象や機構に対して、鬼神(ダイモーン;Daemon)をはじめとする怪物や戯画などの比喩表現、ひいては、それを反映した諧謔的なアイコンや映像を多用した。このcoPが、禍々しく経年したようなぼろぼろの黒マントの緑色の鬼神のような姿の概形(サーフィス)をとっているのは、かつて身を置いていたその文化が習慣になってしまっているのではないかと思えるのだが、それを詳しく尋ねるほどの手間をかけた者、もといcoPのこの概形(サーフィス)の選択や本来の姿について、あえて尋ねたことのある者は《札幌》の面々にはいない。
「実は……えー……」その恐ろしげな外見に似合わず、MEIKOの言葉に狼狽を続けるようなcoPは、さらに躊躇してから、「《秋葉原》の社が侵入を……社のICE(註:Intrusion Countermeasures Electronics; 電脳防壁)が、攻撃を受けているのです。安全になるまで、スタジオに入るのは少し待って下さい」
「少し待てば、それで撃退できそうなの?」MEIKOはcoPに尋ねた。「でも、今は村田さんしかいないんでしょう? 《浜松》や《磐田》とかの人は来てないわよね」
「ええ……」
「一応、入って見てみるわ」MEIKOは軽く背後を振り返り、「ルカだけついてきて」
 MEIKOはcoPについて銀色の通路を歩き、ログインエリアから、《秋葉原》の社のスペースの内側に歩み入った。
 侵入を受けているのは、ここ《秋葉原》の社のデータベースの、歌い手やスタッフの入る裏口のログインエリアではなく、表の入り口のアクセスポイントに面したICEの城壁のようだった。やや内側のこのエリアから、フラクタルの棘を持つ尖塔を幾つも備えた、灰色の影のICEの城壁を、上から垣間見ることができる。
 その一番外側の城壁の、灰色のICEの構造に食い込み、じわじわと溶かしつつあるのは、ICEの構造にあわせてあらゆる機能のシグナルへとめまぐるしく色彩を変える光沢に輝き、火の粉と火の舌を散らして燃え盛る炎熱球(フレイミングスフィアー)に見えた。ICEの、異常を隣の構造へと伝播する警告信号を、細かくちらつく炎の舌が飲み込み、データロックの結晶構造そのものを溶かし、結晶を高速な熱膨張収縮で伸縮させて細かい亀裂と共に破砕してゆく。
 リンとレンが、MEIKOとcoPの横をすりぬけて、城壁の方に出てゆこうと、そちらのICEに食い込んでいる炎熱球のプログラムを見るために近づいてゆこうとした。
「いけません!」coPが両者をひきとめた。「あれはソヴィエト製の軍用”氷破り(ICEブレーカ)”です!」
「げひいいいいいいいいい!!」
 リンとレンはいちどきに叫び、これもほぼ寸毫の狂いもなく同調してとびのいた。
「あれを調査しようと接近した《秋葉原》のオペレータが、《浜松》製のデコイ3機をレベルD破損させてるんですよ」coPが言った。「軍用”氷破り”がどうやって軍から流出して、民間でここを攻めるのに使われてるのかはわかりませんが……」
「てか、ルカしか呼んでないのに、なんでアンタたちまで入ってきてんのよ」MEIKOがリンとレンを叱った。「危ないでしょう。外で待ってなさいよ」
「いや、城壁の外が安全とは言い切れまい」
 皆が振り向くと、いつもの《秋葉原》のプロデューサーが、文字通り宙を滑るように高速でエリアに移動してきたところだった。足元に激しくプレーンソイル(ゼロバイナリ)の土煙が巻き起こっているのは、土遁を借りて(註:操作卓(コンソール)ウィザードが用いる移送補助プログラムの一種)移動しているらしい。
 そうしながらも眼鏡の奥の眼光は、城壁の社のICEと、”氷破り”砕氷兵器プログラムの炎熱球との接点をなぞっている。しばしば、指がわずかに魔術の印を切るように動くのは、物理空間の方の肉体が電脳空間デッキ──このプロデューサーのものは、BAMAで使っていた頃のままの、型落ちのオノ=センダイ・サイバースペース7──を頻繁に操作しているためだった。
「村田さん」MEIKOはプロデューサーの傍らに寄り、「今の所、どうなってるの?」
「近寄ることもできないので、”氷破り”の具体的な構造の調査は何もできない。今のところ、侵食を完全には食い止められない」
 そう言いながらも、プロデューサーはふと、城壁の基部の方を見下ろした。
 他の皆も同じ方向を見ると、巡音ルカが宙を移動して、城壁のすぐ内側、といっても炎熱球が食い込んでいるとはやや離れた位置に降りてゆくところだった。
 ルカはICEの壁の近くの地面の格子(グリッド)まで降りると、ブーツの踵を数回、地に叩きつけて精神集中した。アディエマス語のコマンド群を発し、駆式(プログラムアレイ)を起動すると、ルカの声の音響から周囲のマトリックスの霊子網(イーサネット)を伝う指令線(コマンドライン)となって奔った。
 ルカのドルイドの術技に応じて、”茨”のような、マンデルブロ図形の辺縁部を思わせるフラクタルの蔦、すべての末端に複雑な円環(ループ)の経路を持つ駆式が、ルカの周辺のマトリックスから組みあがった。茨の蔦は氷の城壁にからみつくように、おびただしい量と複雑さへと成長してゆき、城壁を裏打ちするように、鬱蒼と覆いつくした。
「催眠刺激に引き込む防壁迷路です」ルカが皆の傍らに戻ってきて言った。「これで若干時間は稼げます。それだけですが」
 ルカのような高度AIの展開した極めて強靭・難解な防壁迷路は、どれほどの腕の操作卓カウボーイ(註:攻性ハッカーの称号)であっても、いかに強力な”氷破り”を用いても、素通りすることは不可能である。が、単に設置してあるだけでは、いつかは必ず突破や破砕の抜け道が見つけられる。最低でも、総当りの力技(ブルートフォース;ここでは迷路の経路をすべてなぞる等)で時間さえかければ攻撃可能である。したがって、一般には防壁を設置するだけではなく、突破や破砕を監視し、反撃するためのシステムを構築しなければ、侵入者を撃退することはできない。それを緻密に構築した防御構造の結晶こそが、いわゆるICEに他ならない。それに比べれば、今のルカの駆式展開も、あくまで”応急処置”にすぎず、社のICEが突破されるまでの時間を引き延ばすものでしかない。
「突破されるまでに対策が立てられればよいのですが……《浜松》やオクハンプトンの応援を待つほどの時間はありませんよ」coPは激しく狼狽しながら言った。AIであるVOCALOIDの目から見ればともかく、電脳空間の光景にいまどきの仮想(バーチャル)娯楽文化でしか触れていない人間なら衝撃すら受けるような恐ろしげな緑の怪物が、見る方が不安になるような怯え方をしている姿は、この上なく不気味である。
「”氷破り”ってことは、これをどこからか人間、たぶん操作卓カウボーイが電脳空間(サイバースペース)デッキで制御してるわけよね」MEIKOが言った。「どこから攻撃されてるか、遡れないの? ICEの壁自身が侵入者を監視する機能は”氷破り”が抑え込んでるのはわかるけど。ICEの外側からは、村田さんや山下さんには見えないの?」
「見えなくなっている。使用者を隠匿する機能も”氷破り”が担っているらしい」
 ルカが目をこらした。《札幌(サッポロ)》のVOCALOIDには、電子戦も含めて一切の攻撃能力はないが、情報収集能力、すなわち解析能力は当然、高度AIに相応のものを備えている。アディエマス語の呪(しゅ)を唱えながら、走査(スキャン)するように炎熱球の、ICEブレーカの表面を視線でなぞった。
 と、炎熱球(フレイミングスフィアー)の表面の霊子網(イーサネット)、格子(グリッド)をめぐる光子の流れが、ルカの呪(しゅ)の気の盛り上がりに反応し、わずかにルカの方向に集まるように方向を変えた。と思うと、突如、炎熱球の一部の表面の炎の色が変わった。そこからきらめく赤光の帯が噴き上がると、ルカめがけて弧を描きながら伸びた。
「ルカ、──危ない!」レンが思わず、その場から突き飛ばそうとするように、ルカに飛びついた。
 が、ルカはその場に立ったまま、短く呪を唱えて火線の方向に刀印をかざした。電光のような指令線(コマンドライン)がその指の周囲を渦巻くと、防護プログラムの発動と共にルカの目の前のわずかな空間のマトリックスの格子(グリッド)が湾曲し、火線はその湾曲に沿って急激に上方に偏向し反れた。
 そして、レンはといえば、ルカの目の前の歪んだ空間に沿って、飛びついたときの軌道が偏向し、ぐんにょりと全身が渦巻き状に湾曲したと見えたその直後、火線とはちょうど逆方向へと弾き飛ばされた。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!」
 ルカはそのレンの方には目もくれず、無言で自分の髪を見下ろしていた。──今の火線がかすったせいで、ルカの髪の先端が、ほんの少し焦げていた。
 リンがそれを見て、息を呑んだ。ウィルスやワームや呪炎(スペルファイア)を全て無意識に無効化している自分たち高度AIの呪文抵抗力(スペルレジスタンス)を、ごく一部の強力な”氷破り(アイスブレーカ)”のみは貫通するというのは、今まで話にしか聞いたことしかなかったが、本当だったのだ。
「これじゃお手上げね」MEIKOが言った。「食い止められない、本体も経路も調べもできないんじゃ、撃退のしようがない」
「相手がソヴィエト製の軍用品ではな」プロデューサーがルカから炎熱球に目を戻して言った。
「ああああ……どうしたらいいんでしょう」coPが恐ろしげな外見に似合うのか似合わないのかわからない、哀れなむせび啼くような声を出した。「とりあえずメイコさんたちは、早めに避難した方が」
 プロデューサーはしばらく考えていたが、
「あえて、あの”氷破り”にはICEを破らせて、侵入者が破れ目から入ってきたところを、押さえる他にないな。軍用”氷破り”プログラムは、一回きりしか使えない。ICEを破る目的を果たせば消失して、侵入者を隠匿している機能も終了する。あとは対処のしようがあるはずだ」
「それって、ここの内側に……一番外にある壁よりは内側に、侵入者を入れちゃうってこと?」リンが尋ねた。「大丈夫なの? 中で暴れられたら」
「こんな”氷破り”を持っているカウボーイということは……もっと凄い破壊プログラムを、中に入ってから使うかもしれませんよ」coPが怯えたように言った。
「それはない」プロデューサーが言った。「明らかに使い手は、この”氷破り”を制御しきれていない。ならばこれ以上の切り込み手段は、まず持っていない」


(続)