知り難きこと陰の如く動くこと雷震の如し

 VOCALOID "VA-G01" 神威がくぽが、収録のために訪れた《札幌(サッポロ)》のスタジオの控え室に入ると、鏡音リンが応接席のひとつにけだるげに浅く掛けて、退屈そうに漫画雑誌をめくっているのに出くわした。
「あー、やっぱり、がくぽはいっつも早めにきちっと来るよね」リンはがくぽに、その言葉の中身にも関わらず、困ったように言ってから、「……それがね、予定外のずれ込みがあって、がくぽの収録の出番まではかなり時間あんのよ」
「我は、構いはせぬが」
「いや、ちょっと㍗さんとかと話してくるわ。なんとか、早めに調整できるかも」リンは雑誌をテーブルに置くと、立ち上がった。
「左様か」
「それでも時間かかるとは思うけど……がくぽは、そのへんにある本でも読んでて」リンは去り際に、テーブルの上や傍らの本棚を指差して言った。
 ……控え室に取り残されたがくぽは、しばらくその場に立っていたが、やがて、リンの指差した、傍らの本棚を見た。『人柱アリス』『本当はおそろしいシンデレラ童話』『まそっぷ童話集』といった、いかにも無害そうな絵本が並んでいる。
 どれも良さそうな本だったが、がくぽはふと、テーブルの上に置かれている何冊かの雑誌のうち、リンがさきまで読んでいた漫画雑誌に興味をひかれた。表紙に、『コミックRIN』の文字と、世代的にリンを思い出させる少女の姿が描かれたその雑誌を手にとると、何気なくそのページをめくった。
 がくぽはその中身を見るなり、ばたりとページを閉じた。
 そして、顔を上げてまばたきした。今見たものが、信じられないかのようだった。
 再びページを開き、まじまじと見た。それから、眉根にしわを寄せ、四書五経でも精読するかのように、紙面の隅々までを目で追った。
 と、そのとき、無造作に扉が開いて、巡音ルカが控え室に入ってきた。
 そして、ルカは、そのがくぽの姿──入ってきたルカに気づかないか、あるいは気にもとめないように、その漫画雑誌を食い入るように見つめているその姿──を、しばらく無表情で見下ろし続けた。
「ルカ!」突如、そのルカの姿に気づいたがくぽは、『コミックRIN』の開いたページを、ルカの目の前に突きつけた。「これは一体、どうしたことなのだ!」
「どうしたことなのか、といえば」ルカはそのページに描かれているものを、淡々と説明した。「設定上の年齢はともかく絵面の上では二次性徴直前後あたりの幼い肢体をおしげもなく晒した少女が成人男性と濃厚な絡みを演じているということです。Ero-ota-muke Hentai Mangaとしては、定番といってもよい題材でしょう」
 その最後の方に出てきた、"CV03" 巡音ルカの外語ライブラリで発音されていた数語の熟語に関しては、何語なのかは不明だが、どのみち日本語ライブラリしか持たない神威がくぽには全く聞き取れなかった。
「ルカは、これを存じてのことか!」
「それはHentai Mangaの定番の題材とはいかなるものか、ということをですか?」
「さにあらず!」がくぽは、再びページを自分の方に向けて、まじまじと見つめ、めくりながら言った。「リンが、……あのリンが! かようなものを読んでいた、なる事を……ルカは既に存じておるのか、ということなのだ!」
「そんなことは知りませんが、別に今それを知ったからといって、何がどうということもありません」ルカは平坦に言った。
「なんたる……なんたることだ……!」がくぽは、まるでそのルカの答えを聞いていないかのように、「あのリンが、かようなものに触れていようとは……!」
 がくぽは何か慄然とした様で、『コミックRIN』のページをめくり続けた。
「リンはいまだ……幼いのではないのか!? かような、その……不適切な代物に触れるには、いまだ」
「さきも言いましたが、外見年齢だの設定年齢だのが実際に生きている年数と一致しているとは限らず、それはリンに関しても言えることで」ルカは言ってから、脱線しそうな話題を切り替え、「どの道たとえリンが”幼い”としても。今時、それに近い程度の映像表現に触れるくらいは当然のことです。”不適切な代物”などと云いますが、この時代、そのくらいの表現は、世にあふれています」
「あのリンが……信じられぬ」がくぽは呻くように続けた。
「年頃としては当然ですし、特にリンの場合はボーカリストとしての仕事で、その手の歌詞をはじめ、そういった内容を自分で歌うことさえあって、ひっきりなしに触れていますから」ルカは平坦に言った。「レンもそうですが、レンの場合はさらに特殊な傾向・嗜好、まさにHentaiという語の複数語意が指すに相応のものが入ります」
 がくぽは、そのレンへの評にはルカの方に目を上げ、何か恐々とした様子を一瞬だけあらわしたが、やがて、ふたたび漫画雑誌の紙面に目を落とし、
「我はこれまで……リンやレンまでが、かようなことを知っているなどとは」がくぽは重い声と表情で言った。「これまでにリンには……一切、リンに対してだけは、我はそのような目を向けたことは無かった」
 その言葉に、ルカはほんの僅かに眉を上げたが、
「”そのような目”、他者を特別な目で見るような事ではありません。この程度のことを、知っているからといって。知っているのは、普通のことです。リンもレンも」ルカは静かに続けた。「むしろ、知らないのは、貴方だけではないですか」
「……何を言う!」がくぽは目を上げた。
「現に、リンやレンについて、当然のことを知らなかったではありませんか」
 がくぽは愕然としたように、雑誌を持ったまま視線をおろした。
「……いかにも、そうかもしれぬ」
 やがて、がくぽは静かに言った。
「我は、何も存せぬ。リンがそれを知っていた、ということも。知っていること、このような内訳についても」
 がくぽは、閉じた『コミックRIN』を深刻な表情で見つめた。
「左様な我こそが、普通ではない、特異であるということなのであろう」自らに言い聞かせるように、再び重い声で言った。「しかし……ならば、我は如何にすればよいのか」
「──私が、教えましょうか」
 がくぽは目を上げた。
「何……何をだ!?」
「ご自分が、これまで何の話をしていたのです?」
 がくぽは、ルカを、思わずまじまじと見てから、その身体の線の方へと目を落としかけ、そこで慌てたように、目をそらした。
「まさか」がくぽは口ごもった。「それは、……しかし」
 ルカはわずかに首を傾けて、そのがくぽを見つめた。
「いざというときに──GUMIやリンにそれを教わる羽目になるよりは、良いのではありませんか?」
 ルカは、躊躇もなく流れるように、がくぽの方にゆらりと一歩踏み出した。がくぽはその歩幅に合わせたように、ぎこちなく後ずさりした。
「いや、いま少し待て……」がくぽは上ずった声で言った。「その……不安が、いたく不安があるのだ!」
「最初は、不安は誰にでもあります……」ルカはやや目を細めて、静かに言った。
「いや……しかし本当に、ルカに教えられることができるのか、そこに不安が……いまひとつ疑問があるのだ!」がくぽは、ふたたび『コミックRIN』の1ページを開いて、ルカに突き出して見せた。「その、ルカとは、いささか違うような……このような体つきの者との、その様を、ルカから教わることができるのか否か、ということなのだ。この”つるぺたり”とした──そう、まさに、リンの体つきのような」
 ルカは立ち止まった。
 ──まさに、両者の間の、話をしていたのは何なのか、教えるのは何なのか、に対する認識が、微妙に、ほんの微妙にではあるが、食い違っていたのである。
 電脳空間(サイバースペース)のルカの背後の格子(グリッド)に突如、炎が炸裂するように、高速回転する電脳駆式のスクリプトからなる赤光があふれ出した。ルカはアディエマス語のコマンド群を低く詠唱しながら、その炎の中の中空から、禍々しい形状の刀身を持つ長剣──グラットンソードを引き出した。
wii感染困るしぃ!!」そのルカの普段の口調や物腰からは信じられないような絶叫は、発音は英語ライブラリによるものだったので、元の語もその意味もがくぽには皆目わからず、ただ”空耳”で謎の日本語にしか聞こえなかった。「凄まじいいぃ!! エロシィーーーーーン!!!
 グラットンソードと呪炎(スペルファイア)の連撃ががくぽに襲い掛かり、直後、彼を中心として控え室じゅうを荒れ狂った。
 ……そのしばらく後、スタジオで、リンがひとしきりあたりを探した後に、スタジオに戻ってきて出会ったルカに尋ねた。
「なんか、控室にあった本が見当たらないんだけど、ルカ知らない?」
「燃やしました」ルカは無表情でリンに答えた。「”不適切な代物”だったので」
 なお、この当日の収録に、がくぽは全身黒焦げのボロ雑巾のような姿でスタジオに現れたのだが、リンには、それと漫画雑誌がなくなったこととの因果関係については、到底想像の及ぶところではなかった。