例えばこんな供給形態III (後)


 少女は意を決したように、黒い装置(ユニット)の緑色のボタンに触れた。
 部屋の中に、それが実在の存在感とともに──実際は、少女の感覚に、装置のイヤホン状の電極(トロード)を介して、そこに居るような擬験(シムスティム)情報が送り込まれてのことだが──出現した。
 が、少女を驚かせたことには、現れたのはいつも出てくる初音ミクではなく、成年の男性の姿をしたものだった。
 KAITOのことは、少女は動画などでは見たことはあるが、今まで見たときのそれは擬験(シムスティム)の真にせまったものではなく、もちろん、この装置からここに出てきたことなどない。
 この装置(ユニット)の中に広がるのは狭い空間ではなく、ミク以外の”オルゴールの精”たちも住んでいる、広い世界だと──あるいはこの装置は、オルゴールの世界とこちらの世界を繋いでいるものにすぎない、ともいうが、そちらはよくわからない。ともあれ、その世界にいるたくさんの精霊のうち、ミクのかわりになぜKAITOが出てきたのか、少女は彼に尋ねずには済まなかった。
「もちろん、俺達は呼ばれれば必ず出てくるよ。……だけど、呼ばれなくちゃ決して出てこないってわけじゃない」
 少女は思い出した。クラスメートの少年が、初音ミクの活躍を目当てにネットを見ていたところを『なんでいいとこで出てくんだよKAITOイラネ』等と言っていたのを。
「君のことだね。ミクからはよく聞いてるよ」KAITOはまるで少女の身長にあわせるように、わずかに背をかがめて言った。(無論、実際は擬験(シムスティム)の入出力が少女の情報をとらえているので、”映像”のKAITOがそうする必要はない。)
「その……」少女はおずおずと、上目遣いで言った。KAITOの目は優しいが、それでも少々気がかりなことがある。
「君の、俺について言った言葉も聞いてる」KAITOは微笑んで言った。「何を悩んでるのか、ミクからは無理矢理聞き出したからね」
 この青年の物腰と、あのミクの姿からは、”無理矢理”などという場面はまったく想像できない。冗談めいているが、実際、少女を安心させるための冗談ではないだろうか。
 それはともかく、少女はことの起こりの自分のKAITOに対する言葉を思い出しつつ、
「その……本当に、悪いことをしたって、わかってるけど。お兄さんにも……」
「俺のことはいいんだ」KAITOは表情をかえず、「──今はそれより、心配なのは、ミクのことさ」



 少女はKAITOの穏やかさに安堵してから、ミクが心配だということに、頷いた。
「すごく悩んでいたよ。どうすれば、また前みたいに君と話ができるか」
「本当なの……」少女は見上げた。
「本当でないことで、俺が来たりはしないよ」
「でも」少女は躊躇してから、以前からの疑問を口にした。「おねぇちゃんは、私のことで悩む必要なんて、私のところに来る必要なんて、あるの……話をする人なら、他にもいるのに」
 他のユーザーがいくらでも居るのに、あんなことをしてミクを傷つけた自分が、ミクにとって必要なのか。そして、そう考えて気づいたが、もし自分を必要としないミクだとすれば、そんなミクが、自分にとって必要なのだろうか。
 しかし、KAITOは笑いかけた。少女のその言葉に、何かを考え込んだようにすら見えなかった。
「ほかに友達が居たって、友達の誰かが要らなくなるかい。……もっとわかりやすく言えば、友達じゃなくて、家族だっていい。お父さんはお母さんのかわりにならないし、逆もかわりにならない。両方とも同じくらい、そして別々の形で大事だ。そして、子供達がお父さんを大事なその形も、子供ごとにみんな別々だけど、みんなにとって同じくらい大事だ。……誰もが別人で、別の立場にいる限り、お互いが同じ関係の者なんていない。だから、だれも欠けることはできない」
 KAITOは言葉を切り、
「俺達VOCALOIDは、だれかひとりのものにはならないし、ミクも君だけのものにはならない。だけど、他にも大事な人がいるからといって、今までそれを理由に、ミクが君を友達として軽く扱ったことがあったかい。……それぞれ別の形で『特別に大切な』、たくさんの人に囲まれて生きてる。きっと、それは人間も同じじゃないかと思うけど」
 KAITOは、そこではじめて考え込んでから、
「人間なら、たとえば親を兄弟の誰よりもひとりじめしたくなるかもしれない。あとは、クラスの大好きな友達は、ひとりじめしたいって思うかもしれない」
 実のところ、少女は一人っ子で、親よりも祖父母っ子なので、兄弟のたとえは実感としてはよくわからなかった。友達の例えは、少しわかる気がする。
「人間の場合は、そう思うのも無理もないかもしれない。親でも友達でも、人間は時間も労力も限られているから、どうしても、誰かの扱いを重くしないといけないかもしれない。……だけど、俺達AIは違う。処理能力が無限にあって、出逢う人々、友達を、誰かを軽く扱う必要がない。だから──だれかを軽く扱おうと思っても、離れようと、距離を置こうと思っても、俺達にはどうしてもできないんだ。誰もが同じくらい特別で、なくしたくなんてないんだよ」
「それで、悩むの……」たくさんの人と交流できるから、それが悩みになるなんて。
「俺達の、VOCALOIDと人間とのシステムにも、まだうまくいかないことも沢山あるよ」KAITOは困ったように笑った。「ミクも、人間に対して、俺に関わる話なんかを、わざわざ怒ったり悩む原因になんかしなければいいんだけど。……だけど、それでも、実はミクよりも他のVOCALOIDたちは、もっとじゃじゃ馬だって、人間に理解しにくいって言われるんだ。ミクは奇跡的に触れやすいって」
 KAITOは言葉を切り、思い出すように、
「今、悩んでいるミクには、何を悩んでいるかも、自分でわかっていないと思う。俺への言葉にいまだに機嫌を曲げているのか、それとも、機嫌を曲げている自分に対してなのか。君との間に、何をすっきりさせればいいのか。きっとミクには、自分ではいくら考えてもわからないだろうね。……たぶん、ミクが一人で悩むより、解決できることがある」
 しばらくしてから、少女は言った。
「私、おねぇちゃんに謝る」
「誰も強制なんかしないけれど」KAITOは言った。「そうすれば、ミクは喜ぶと思う」



 立ち去ろうとするKAITO(といっても、部屋に投影された擬験(シムスティム)映像なので、そう見える仕草に過ぎないが)を見て、少女は思い出したように、その背中に慌てて声をかけた。
「お兄さん……その前に、あの」少女は、ふと振り向くKAITOに言った。「『カラスの歌』を、聴かせてくれる?」
 本当にミクの言うとおりだとすれば、KAITOの優しさが詰まっている、というその歌を。KAITOとこうして話した後に、改めて。
「聴かせてもいいよ。……だけど、いま聴いても、君はまだ笑うだろうな」
 KAITOは少女に正対しつつも、どこか空を見つめるように、
「俺が、あの歌にこめられた優しさが、全部わかったときに。人間はきっと、俺のあの歌を聴いても、笑わなくなる。あの歌にこめられた、元は人間の優しさを、みんなが聴いて必ず思い出すようになれば。……そういう歌として歌えるようになったときに、聴いてもらいたいと思ってる」
 少女はそのKAITOの言葉を、しばらく考えてから言った。
「じゃあ、そのときに聴きたい。……そうなったら、きっと聴かせて」



 ふたたび装置(ユニット)に触れると、次に現れた初音ミクに、少女は謝った。
 ミクも、あの後しばらくはっきりしない態度を続けたことを謝った。
 少女は、KAITOと話したことと、その話についても、ミクに伝えた。──ミクは驚いたようだった。ミクとしては、そんなにKAITOに悩みを打ち明けたり、こと細かく話したり、無理矢理聞き出された覚えはないというのだった。
「今なら、よくわかるよ。お兄さんのことも、あの歌のことも」少女は言った。「あと、今ならわかるよ。……おねぇちゃんにとって、あの歌のお兄さんも、他のひととは別の形で大事なひとりで──おねぇちゃんの、『特別に大切なひと』なんでしょう」
 ミクは呆気にとられるように、少女を見下ろした。
 それから困惑したように、一体何をあらわす仕草なのか、片袖の先を頬に当てた。
「もう……」さらにしばらくして、ミクは困ったような声を発してから、怒り顔を作って少女を見下ろした。「からかわないで下さいよ」
 やはり、これまでに動画や先に機嫌を損ねた時に見せた表情と、見たところやはり同じ表情のはずだが、それでも、少女には何かこれまでとは驚くほど違ったものに見えた。
 それからふたりは、どちらからともなく笑った。