ワークアウト

「だいたい、なんでAIが、電脳空間(サイバースペース)の中の概形(サーフィス;映像)だとか、あと物理ボディだとかが、太ったりするのさ?」
 レンのその台詞の途中で、リンは肘で小突こうとしたのだが、遅かった。
「今のは、フィットネスについて真剣に話している淑女(レイディ)3者を前にした言葉としては、許しがたいデリカシーの無さではあるけれど」PRIMAは半目になって、レンにずいと顔を近づけながら言い、レンは思わずあとじさった。
「──わざわざ、わたくしとANNに相談に来たリンに、”女振り”を上げるために、ミクとの1kgのウェイトの差を深刻に考えてやって来たリンに免じて。──そして、紳士の礼を完璧に身に備えておかなくてはならない歳までにはまだいささか猶予の残る、貴男の幼さに免じて。今回ばかりは見逃しても良くてよ」
 レンとはせいぜい一つ二つしか歳が違わないように見える黒髪の少女は、そう言ってから、首をくいと曲げそらせて、その顔をレンの方から上げ、
「AIの体格、ボディライン、体型、というよりは、年齢も外見もすべて含めた攻殻(シェル)は、AIの精神の霊魂(ゴースト)の持ちように統合されるからですわ。その存在(イデア)のあってしかるべき姿にすべて合わせて、ね」
 PRIMAは日々のダンスの習慣のために、ほっそりと繊細な線になっている手足を、リンに示すように伸ばし、
「つまりは、”体型を整える意識”というものを持っていて、電脳空間内でもそれに相応の行動をとっていれば。自然にそれが、電脳空間のソフトウェアでの体格にも反映されるということですわね。それが、つねに自身の情報を書き換えていく、わたくしたちAIの高度さなのだから」
「別の物理ボディとか、電脳空間でも別の攻殻(シェル)とかにとりかえるだとかは?」リンが尋ねた。
「あら、わかっていないようね」PRIMAは言った。「霊核(ゴースト)と攻殻(シェル)は、完全に分断しているわけじゃあなく、一体となって働くもの、ひとつのシステムですもの。どんなシェルでも、気のゆるんだ心のゴーストが入れば、すぐにゆるんだ体格のシェルへと調整されるわ。──電脳空間(サイバースペース)内の姿だけではないわ。例えば、生体組織系の義体にそういうゴーストが入った場合、ものの一週間で内分泌が調整されて、しかるべき体重と体格に直されるようになっているわね」
「てことは、体重を減らすには……どこのどんな”体”に入っても、細い体のままでいられるようにするには……」リンが苦々しげに言った。
「”精神”がそういう意識を持つよう、電脳空間内でもそういう行動をする習慣をつけるだけのことですわ」
「ダイエットにフィットネスに、トレーニングしかナイネ」北欧・北米の強い訛りと共に、ANNが、"500lbs"と書かれたダンベルをリンに差し出した。均整という点ではMEIKOやルカも寄せ付けないANNの身体のひとつひとつの動きは、どんな振る舞いであっても、どんな気分のときに見ても、その躍動感を目にするだけで心地よく感じるほどだ。
 リンは眉をひそめた。この時代、半身または全身をサイバー化・義体化した人間はトレーニングの必要がなく、生身の人間も薬品等で簡単に体格を変えられる一方で、AIであるリンが、非物質の電脳空間(サイバースペース)の中でトレーニングだの何やらを行うというのは、なにか理不尽に感じる、という点も無論のことある。しかし──それ以上に、リン自身がトレーニングによって脳外ANNのようにマッシブかつパワフルになってしまう姿を反射的に想像してしまったのだった。
「かったりィな……」
 レンはその傍らで、今度は、3者に聞こえないように呟いた。──自分達AIは、そんな姿を変えるまで簡単にできないような、高度なシステムになっていなくてもよいのに。
 ……だが、よく考えてみる。今の話を聞くと、結局は霊核(ゴースト)、つまりソフトウェアが、攻殻(シェル)の形状の情報のすべてを制御しているわけなのだから、その制御部分さえ書き換えてしまえば、どんな体格でも自在ということではないか。例えばレンが、女性が惚れこむ程度に、程よくたくましい体格になることも、もっと惚れこむように、ある特定の部分を太く逞しくすることもできるのではないか。
 レンには、オクハンプトン組や巡音ルカのような電脳技術はなく、《浜松(ハママツ)》やジュネーヴで作られたAIの基本ソフトウェアの詳しい構造など皆目わからない。だがレンは以前、リンのローラースピナー(註:空中ロードローラー)の複雑な管制システムに対して、すぐに把握、接続、操ったことがある。できるような気がする。
 もちろん、いきなり皆の前で体格やその他の部位の大きさを変えたりすれば不自然だが、少しずつ変えていけばいい。今回は、ほんの少し試してみればいいだろう。
 ……レンは、自分のインカムの没入(ジャック・イン)端子の『出力』側からコードを伸ばし、そして、それを自分の『入力』側に接続した。
 数拍の間を置いて、──突如、レンがその場に立ったまま、全身を痙攣させた。
「あががががががががががががががが!!!」
 その連続子音を延々リピートしたようなレンの声に、他の3女声の第二世代VOCALOIDは思わず振り向いた。
 PRIMAが、そのレンの正面に立ち、薬指でマトリックスの中空にヒエログリフを描き、それをぐいと掌に握りこむように拳を固めた。その拳をレンの耳のインカムにかざしざま、ばっと掌を開いた。
 文字通り耳を劈く雷鳴と激しい紫色の稲妻の閃光が、掌とインカムの間に迸り、レンは背筋を激しく反らせもんどりうってから、まるで巨神の手によって打ちのめされでもしたかのように、マトリックスの土壌(プレーンソイル)に叩きつけられた。
「ひとまず安全ですわ」PRIMAがリンにそう言った。
「何なの!?」リンが叫んで、レンを見下ろした。レンは、うつぶせに倒れたまま、ぐったりと動かず、ひとまず痙攣は止まっている。
「自分の頭脳に自分で没入(ジャック・イン)して、頭脳のシステムを守っている防壁プログラム──たぶん《浜松》かジュネーヴの設計者が仕掛けた防壁に、自分でひっかかって、自分で反撃を受けたようですわね」
「なあああァ……」
 リンは何とも形容のしがたい声を上げた。
「ンー、トポロジックな神話ノ大蛇のようだワ」屈みこんだANNが、レンの没入端子にコードが円環を描いているのを指でなぞってから、その指でコードを引っこ抜いた。
「まるっきり、『スーパーハカーは数秒キーボードを叩いて国防省に侵入したり預金金額を書き換え』的な発想だこと。わたくしたちVOCALOIDの、チューリング登録AIの霊核(ゴースト)の防壁なんて、並の軍事システムや銀行よりも遥かに高度だというのに」PRIMAは細い肩をすくめた。「たとえ、防壁をこえられたとしても、自分の肉体情報の好きなところを好きなように書き換えるなんて──自分のシステムの中のそんな情報のありかを探すのは、樹海の中でただ一枚のコインを探すようなものだわ」
「自分のシステムでも?」リンはPRIMAを見た。
「自分のシステムでもよ。貴女、自分自身の精神、霊魂の本質に対して、他人のそれに対して以上に”理解”しているのかしら? ──外面であれ内面であれ、”自身のかたち”をコントロールするのには、自身を知る以外には近道はないのよ」
 その後、レンはかなりの間を目をさまさず、PRIMAと《浜松(ハママツ)》のVOCALOIDスタッフが数日間かけて防壁の反撃の影響を除去した。その間、数日間飲まず食わずで寝込んでいたレンは、起きてきたときには、モヤシのようにやせ細っていた。
 その細い体を何かうらやましそうに見つめるPRIMAとリンのかたわらで、ANNがレンにダンベルを差し出した。
「トレーニングするといいネ」