塵細の声のかけら

 電脳空間(サイバースペース)の託児所、積み木のようなオブジェクトが多数浮かぶ広い遊戯室に一杯にひしめく子供達に向かって、初音ミクは説明した。VOCALOIDとは、”仮想(ヴァーチャル)あいどる”とは。ミクは電脳空間に存在する、《札幌(サッポロ)》の社のAIアイドルだ。しかし、どこの誰でもミクと”専属契約”し、誰でもミクに歌ってもらうことができる。ミクのAIの下位(サブ)プログラムは市販されていて、個人の電脳端末(PC)の操作卓(コンソール)にそれを挿込(インストール)すれば、あとはその初音ミクの側面(アスペクト;一部、分身)が端末内の仮想(ヴァーチャル)スタジオで24時間待機し、いつでも歌ってあげられるのだ。
 が、子供達がそのシステムを欲しがった時、ミクは答えに窮した。その市販の下位プログラムは──それは個人レベルの財力で、高位AIの”あいどる”と契約できるという、画期的なものだとしても──新円(ニュー・イエン)の一番額面の大きな紙幣1枚でも買うことはできない(正確には、1.5枚あまり必要だった)。そして、実のところ、決してエディタの操作も簡単ではなく(これは基本部分開発の《浜松(ハママツ)》がよく批判に頭を悩ませている点だった)できればほかの知識も技術も、さらに可能なら機器も要る。つまるところ、年端もいかない子供達にも簡単に使えるものというわけではないのだ。保護者に頼めと言ってもいいが、親たちが理解があるとは限らない。
 しかし、できないと言い切ってしまうのは真実ではないし、期待にあふれた子供達の目を見るとなおさら言いにくい。ミクは子供達のひしめくただ中で、立ち尽くした。
 ──うしろに居た、子供達の目にも映っていなかったKAITOが、胸のポケットから何かを取り出しながらミクの傍らに踏み出したのは、そのときだった。それは、カード状のオブジェクト・プログラムで、鍵盤状のボタンがついており、黒地に緑の色合いがミク自身を思わせるものだった。
「ミクの一番小さな下位(サブ)プログラムだよ。これだけで、何の契約もお金も、ほかには何もいらない」KAITOはカードを差し上げて示しながら言った。「鍵盤を押せば、その通りのドレミファを歌ってくれるよ」
 歓声と共に群がる子供達に、KAITOはそのオブジェクトをどんどん配布元のリンクから引き出して配っていった。それは、まぎれもないミクの声で歌う、ネットワーク上の全てのミクの側面(アスペクト)のうちのひとつであり、本物のミクに違いなかった。そして、鍵盤玩具として充分すぎる機能と、手軽さを備えたものだった。
 ──子供達と別れてから、《札幌》のエリアに戻る途中、ミクは並んで歩くKAITOに言った。「あの子たちが、喜んでよかった」
「俺達にとっても、ミクの声が皆に伝われば、嬉しいことだね」KAITOは最初から持っていたカード状プログラムのひとつを、手の上に載せたまま言った。
 ミクはその言に、微かにはにかみつつ、
「兄さんが、それを持ってくれてたおかげで……」
 と、そこで、ミクは不意に気づいて振り向いた。
「兄さん、それ、もしかして……」ミクは口ごもり、KAITOの手の”ミク自身の歌声の欠片”のカードを見つめながら、戸惑いつつ言った。「いつも持ち歩いてるの……」
 言いながら、それがどういうことなのか、とりとめもなく考えが及んだ。それらは、まるでミクの中ではまとまらなかったが、いつも持ち歩かれているという、単にそれを意識するだけで、どういうわけか、頬がかすかに熱を持つのが自分でもわかった。
 KAITOは、そんなミクの様子に気づかずにまっすぐ歩きながらも、しばらくひとり考えるようにしてから言った。
「こんなこととか、ときどきあるからね。そういう機会があるたびに、VOCALOIDを人に知って貰いたい、触れてもらいたいって思ってる。それには、こういうプログラムが便利で、一番手軽なひとつだから」
 KAITOは手の上のカードを見つめ、なかば独り言のように言った。
「……だけど、俺の声には、こういうプログラムは開発されてないし。それに、向いているとも思えない。……知ってもらうにも、人気があって知られていて、それに女の子の声がいいだろうし、貰う方も、それが嬉しいだろうから。……いつも、ミクの声のを配るのは、だからさ」
「そう……」ミクは俯き加減に呟いた。「兄さんが、いつもそこまで考えていたなんて」
 ミクは何気なく、深く考えずに思わず聞いてしまったことだったが、与えられた答えは予想していなかった重さのあるものだった。
 さまざまな理由で、常に人気を集め華やかな舞台に立つミクと、その反面のKAITOの、ふたりの埋められない立場の違いと。KAITOにとっての、その立場の重さと深刻さと。そして、それに対するKAITOの冷静なとらえ方に。今の言葉から、ミクはふたりの間の、大きな距離を感じた。
 聞かない方がよかった。その答えを思うと、表面ではミクにはなんでもないことのように話したKAITOの、本当の心境を思うと。
 そして、それを知った自分も、こんな気分になるとわかっていたら。聞かなければよかった。自分は、どうしてこうなってしまうのだろう。
 ……ミクが深刻な面持ちになるのには、KAITOは気づいてか、歩きながらも隣からしばらく見つめていた。が、やがて、思い出したように言った。
堅苦しいことを言ったけど──でも本当は、ただ俺が単に鍵盤を叩いて、あの子たちみたいな童心に帰りたいことがあるって。結局はそれだけだけなのかな。いや──」
 KAITOはカード状の、ミクの声のプログラムを見下ろし、
「──ただ、何処でも、ときどきミクの声が聞きたくなる。それだけかもしれない」
 ミクは不意に立ち止まった。何度か、まばたきした。
 そして、そんなミクに気づかず歩き続け、前をゆくKAITOの背を、しばらくの間、上の空で見つめ続けた。……ややあって、ミクはその”兄”の背中と足取りに追いつこうかというように、その後ろにすがってゆくかのように、再び早足で駆け始めた。