抑え役の末妹

 鏡音リンが居間に入ると、部屋の隅の方の床に、見慣れないものがあった。自然の粗い石が組み合わさってできた、扉のようなもので、開ければぎりぎり人が通り抜けて床下に入れそうな大きさのものである。ドルイドの巨岩遺跡にも見えたが、リンにはむしろ、真駒内の滝野霊園にある奇ッ怪な石のオブジェか何かのような印象を受けた。
 と、不意にがらごろと岩がこすれる音と共に、その石の扉が開いた。狭い出口からは、ぬっと巡音ルカが這い出してきた。
 ──リンは無意識にMEIKOの仕草を真似て、両のこめかみに指を押し当てた。
「ルカ、あのさ」リンはしばらくしてから言った。「そういうところに部屋があるのって、……普通の人の家として、何かこう、不自然じゃないかって思うんだけど」
「別にこの岩戸の中や床の中に部屋があるわけじゃないんですが」ルカは平坦な口調と表情で言った。「ここにはポータルがあるだけで、私の構築した擬似次元界(デミプレイン)のエリアとリンクがつながっていて──」
「いや、そのつながってる先はいいんだけど、……せめて、入り口の場所とか、見かけだけでも、普通の部屋に見えるようにさ」
 電脳空間(サイバースペース)内での《札幌(サッポロ)》のエリアの一箇所にある、一族の住むこの大きな洋館だが、部屋の数が足りていなかった。元々、BAMA(北米東岸)でAI育成されていたルカが1、2年内に《札幌》に帰ってきてここに住むことが予定に入っていたことを含めて、最初から、かなりスペースや部屋数に余裕を持って構築されていたはずなのだが、LEONが移動プログラムの着地に失敗してKAITOの部屋を粉砕したり、急にレンが加わったりで、やたらと不測の事態が相次いだためだった。
 が、正式に部屋が増築されるよりも前に、BAMAでウーンガンやドルイド(註:いずれも電脳技術者の様式)の言霊を操る術技を修得してきたルカは、家の構造物(コンストラクト)の空間を組み替えて、自分の生活スペースを作ってしまっていた。
マトリックスの空間は、物理的なメモリ容量や距離ではなく、象徴図像学(アイコニクス)に依存して配置されるに過ぎません」ルカは静かに続けた。「物理空間ような間取りに無理にあわせて、窮屈に部屋や入り口を配置する必要はないと思うんですが」
「いや、それはまぁいいんだけどさ、そういうのにせよ、なんというか外見だとか、あと出入りのしかたとか」リンは、ごく普通の家の居間のただ中に据えられたミニチュア巨岩遺跡を指さし、「なんかこういう、家の中にありそうもないような代物じゃなくて、もっと普通に見えるものとかさ」
 ルカはあまり表情を変えず、リンを見下ろしている。
「こう、ひとが暮らす空間っぽく、”部屋の中によくあるもの”っぽく……一応、私達って、家の形っぽい中に、一家一族っぽく住んでるわけだし……」
「リンがこだわるのは、よくわかりませんが」ルカは応えて言った。「何にせよ、ポータルの入り口を剥がして別の箇所にリンクを張り替えるだけなので、作り変えるのはすぐにできます」
 ルカが二言三言のアディエマス語のコマンドを発して指差すと、床にあった岩戸の構造物(コンストラクト)は、格子(グリッド)単位の立方体オブジェクトの小片に断片化(フラグメンテーション)、ついで正方形の薄片に分解され、霧散した。



 ルカがリンクポータルを除去して居間から去ったあと、リンは、居間のソファにうずくまるように腰掛け、しばらくの間、うなだれていた。
 突如出現する形になったレン・がくぽとは異なり、《札幌(サッポロ)》の一連のプロジェクトでは最後にリリース、デビューする予定だったCV03が、”大人”で”冷静”というのは、1年以上前からわかっていたことである。この一族の、総ゲテモノ揃えの妖怪ファミリーという状況、その他諸々のリンの置かれていた立場が改善される、最後の、それもかなり期待の持てる頼みの綱、待望の抑え役だったはずではないのか。
 ……30分ばかりもそうしてうなだれ続けたあと、やがて、リンはのろのろと立ち上がると、キッチンに向かった。
 レモンを搾ろうと、冷蔵庫を開けようとしたところ、──ふと、キッチンの隅に、朝にはなかった見慣れない大きな土製の壷が置かれているのに気づいた。
 と、まさにそのとき不意に、ぬるり、という質感と共に、その壷の口からルカの肢体が這い出した。
 リンは冷蔵庫のドアノブに手をかけ、首だけをそのルカの方に曲げた姿勢のままで、ただ立ち尽くしていた。
「ここに壷を配置して口にポータルのリンクを貼ったんですが」ルカはほぼ無表情で言った。「台所に壷が置かれているのは、日本文化の家屋では”よくある光景”なのではないかと思いますが」
「いくら台所によくあるものだって! タコツボん中で生活すんなァァーーッ」