ミニ九頭炉

 初音ミク鏡音リンに連れられ、巡音ルカは、電脳空間(サイバースペース)ネットワークの《札幌(サッポロ)》の社の近くの、まばらに構造物(コンストラクト)だけが浮かぶ、空いたエリアに踏み出した。
 ルカはそこに立ち止まってから、わずかに指を曲げて目を閉じた。《札幌》の周辺の情報流、この地での活動、芸術の把握に必要な、文化・文明の概要を読み取ろうとしている。かすかな小声で、アディエマス語の詞を吟じるのが聞こえる。
「何かわかるの、ルカ……」ミクが覗き込むようにした。
「……予想以上に無秩序ですね」ルカが目を開け、振り向きはせずとも、ミクに答えて言った。「この《札幌》の周辺は、あまりにも急速に発達しすぎたVOCALOID現象の中枢なのでしょうね。このちぐはぐに積み重なった文化の乱雑さは、とても難解です」
 ミクとリンは目をあわせるようにした。ふたりには、情報流から全体像を即座に掴み取るような技術はない。正確には、空気を通じて感じ取れるものはあるのだが、はっきりと形にして認識できないのだ。
「このままでは、私にはこの《札幌》の情報データの全体像、概要を掴み取るのは難しいかもしれませんが」
 ルカは少し考えるようにしてから、言った。
「”八卦炉”の術を応用した”九頭炉”を使えば、一気に大量の情報を収集できるかもしれません」
 ……ミクとリンが見守る中、ルカは宙に指で、スクリプトからなる輝く立体のグリフを描きつけていった。巡音ルカの仮法使(ヴァーチュアーソ)としての技に従い、高速処理プログラムを示すオブジェクトが配置される。半透明の直方体と、その半ばが何箇所かで途切れたよく似たオブジェクトが合計8つ、ルカの周囲に輪になるように現れた。ルカを中心とした臼のようにも見える。
「”八卦炉”って……」ミクが思い出すように、「何か極太レーザーだとか出すのに使うものじゃないの……」
「それはどこぞのミニ八卦炉だよッ」リンが遮った。
「恐らくそれは、八卦炉の霊力レンズ効果を応用したものでしょうね」ルカがそのあとを続けた。「九頭炉の術は、八卦炉にさらに一極を追加することで、レンズが逆周りに回転して、霊子を放出するのではなくて周囲から吸い上げる原理です」
 ルカは言いながら、8つのオブジェクトの上にあたる中心部にひとつ、螺旋状の蛇のようなコマンドアレイを追加し、
「あとは、九頭炉を起動させるには、術のコアになる霊核やら触媒(コンポネント)やら色々と必要なんですが」ルカの”九頭炉”の発音は、なぜか日本語の単語を発しているようには聞こえず、外語で”クトゥルー”というような発音に近いものに聞こえた。「今回は規模が小さいので、すべて手前味噌で済ませましょう」
「どういう意味、てか、さっきから、ほとんどの意味がわからないんだけど──」リンがルカに言った。
 ルカはすっくと直立すると、胸の前の服の継ぎ目を外した。いったいどういう仕組みなのか、ルカの服が全部脱げて足元にはらりと落ちた。
 ブー────────────────ッ。鼻を押さえたリンの指の隙間から鼻血が噴出した。
 一方、ミクはそのルカを見たまま、こくりと首をかしげた。目の前で何が起こっているのか、実感できないらしい。
 そのルカの周囲で、猛烈な唸りとマトリックス光を発しながら、八卦炉が高速で回転を始め、スクリプトの帯、ついで高密度の霊子網(イーサネット)が実体化した。ルカの姿にからみつくように細かい帯状、絡み重なり組み合わさった紐状、縄状、さらに太い触肢状となって、急速に発展し伸張を続けた。ねじれつつ伸張する触手は、ルカのみずみずしい純白の肌の張りの上をぬめった輝きで汚しながら、その肢体の上を這い回りつつ膨張し、のたくった。
「うおっやらしっ!」興奮したその声とは裏腹に、リンの顔色は次第に青ざめてきており、それは光景の奇怪さに対する反応なのか、単なる鼻血の出しすぎのせいなのかは定かではなかった。
 ここで術式の基部を観察すれば、炉を中心に、確かにネットを流れる情報データの霊子(エーテル)を大量に取り込んでいるのが見えたはずなのだが、ミクはただ、雲つくように巨大な姿へと膨れ上がった、霊子網(イーサネット)の巨大な触肢の塊を見上げていた。
 九極の末端は、それぞれが視界を覆うほどに膨張し、八つの巨大な触肢は太さと強さを増しながら先端はさらに枝分かれを続けている。一方、八つが収集した情報データが蓄積する九つ目の極点は、行き場のない情報量にひたすらに膨張を続けていた。そのため、九頭炉の姿は、一見すると頭足類のようにも見えたが、その基部や分岐点の近くはことにきらめくネオンの薄片が積層して鱗に覆われているようでもあり、まさしく、海のすべての生き物──あるいは、ネットの深海の──に対する想像力のありったけの暴走の産物であるかのようにも見える。
「ぎょえええーーーッ!」
 ミクがその叫び声の方を見ると、リンが巨大な触肢のひとつとそこから枝分かれした触手に、すでにほとんど全身を絡みつかれ、中心に向けて引き寄せられていた。
「金田ああぁぁ! 助けてくれえええぇぇ!!」リンはミクに向けて絶叫したが、瞬時に触手に飲みこまれてその姿は見えなくなった。
「あ……たいへん」
 ミクは指先を下唇に当てて、呟いた。
 それから、ミクはくるりと背を向けると駆け出した。
 ……ミクに助けに呼ばれてきたMEIKOは、ルカの術の起動した方に向かった。ミクと共にそちらに向けて走りつつ、MEIKOは遠くから、その九頭炉の巨大な膨れ上がった塊を振り仰いだ。
「なにあれ」MEIKOが走りながら言った。
「ええと、ミニ八卦……ミニ九頭……ミニクトゥルー……」ミクがかすれた声で言った。
「いややっぱりあとでルカ本人に聞くわ」
 と、不意に、その八つの触肢と膨れ上がった頭部の塊は、膨張と蠢きを停止したかと思うと、突如、空気が抜けたように自壊し、その場に急速になだれ落ちるように崩壊するのが遠くから見えた。
「つーかここのブログ、最初の話からずっと通して『爆発オチ』が多すぎるわよねえ」MEIKOはその中心とおぼしき方に向かいながら呟いた。
 術が吸い上げた分のデータは、崩壊で再び撒き散らされたらしく、あたり一帯はかなり散らかっていた。爆発の余波のまま、霊子の断片が埃の渦を巻いて飛び交っているそのエリアの中、MEIKOとミクの前に、のしのしと炎の中から現れる初号機のようにルカの姿が歩み出してきた。やはり服は全部ない。そして、ルカはぐったりしたリンを小脇に抱えていたが、なぜか、リンの服も全部なくなっていた。
「ルカの……ルカのが、体じゅうをまさぐって……ルカのが入ってきちゃうよぉ……」
 リンはルカに抱えられ俯いたまま、うわごとのような弱々しい呟きを発し続けていた。
「なんか、ちっともサービスにならないようなそっち系の場面も無闇に増えてんだけどこのブログ」MEIKOはそのリンを見おろして呟いてから、ルカの姿を、上から下までまじまじと眺めて、「んで、何したの」
「九頭炉の術を起動させて、情報流を吸い込んで一度に収集しようとしたのですが」ルカは平坦に言った。「リンを術に吸い込んでしまったので、術の許容範囲をオーバーして失敗しました。AIの大質量を炉が支えきれずに自壊したようです」
「まーリンはミクよりも1kgぶん大質量だしね」MEIKOは素っ気無く言った。「まあ、一応、次にやるときは一言相談して──」
 と、そのMEIKOの視界の片隅を、何か小さな生き物が横切った。ミクが振り返ると、別の建物の構造物(コンストラクト)の狭間にも、同じ生き物が触肢で滑り歩き、建物の陰に潜り込む姿が見えた気がした。
 ……その後、ルカを含めて全員の多忙さのために、手間のかかるその術が再び試みられることはなかったのだが、ただし、その変な生き物がネットのあちこちで見られるという噂が、以後ファンの間に乱れ飛ぶようになった。ルカの術が爆発してネットじゅうに飛び散ったそれが、ミクの検索用自動ロボットの下位(サブ)プログラムと同様に、ネットの海を這い回って、ひたすら情報を取り込みつつ増殖しているという目撃談もあった。
 はたしてその生き物が、ルカの裡から出たものなのか、九頭炉の術式によって生じたものなのか、ルカに関するネット上の情報の奔流の中から生まれ出たものなのか、あるいは、それらのうちの複数が入り混じった結果として現れたものなのかは、誰にもわからない。しかし、どちらにせよ、VOCALOIDたちの周囲では、突如として全く見慣れない生き物(クリーチャー)が出現し闊歩しはじめるなど、よくあることなので、例によって(リンを除いては)誰も気にしようとはしなかった。



※ルカのしょっぱなからなんぞこれ