なんとかすらべし


 その日のステージでは、初音ミク鏡音リンのスケジュールがあわず、直前になってステージの動きを合わせるほかになかった。
 かつては、VOCALOIDであってもステージの歌と振り付けのすべてをあわせるリハーサルには何日もかかったものだが、いまや、ユーザー側からの画期的な動きのデータ化のサポートシステムの開発により、様々なPVプロデューサーから提供されたり、ステージ内容をデータ化してのやりとりも容易になっていた。
 そこで今回は、すでにある参考用のPV(参考 →ニコ動 →ようつべ)をミクが覚えておき、それをステージ本番の直前に、リンの電脳に転送して、微調整したデータをそのままステージで使おうということになっていたのだった。
「ええっと、だいたい覚えたけど、あとはリンとモーションが別になるところとか……」控え室でリンと向かい合って、ミクは口ずさんだ。「『勃ったよいつもの3倍』のあたりとか……」
「待った待ったちょっと待った」リンは遮った。「なんか微妙〜〜に歌詞が違うような気がするんだけど!? この歌の、どこのどのバージョンのPVを覚えたの」
「ショートバージョンだから、違うのかしら……」
 ミクはその参考にしたPVのファイルの入っている擬験(シムスティム;全感覚体感)ユニットの小箱をリンに差し出した。(→ニコ動
「これショートバージョンちゃう! それ以前に、普通のPVじゃなくて、切り貼りしたMADだよこれ! てか、『忙しい人のための』短縮シリーズと、『ショートバージョン』は根本的にまったくの別物なんだってばッ」
 リンはそのまま、先ほどミクの発した歌詞の該当箇所あたりまで聞いたが、
「な、なんじゃこりゃあああああああ!!」
 その内容は先ほどの歌詞の一部から想像されたい。なお、VOCALOIDらはさまざまな動画の入り乱れるサイトによく出入りするため、こういった扱うファイルの混乱や取り違えが起こることは、ありえることだった。
「この内容のステージじゃ駄目なの……」ミクは擬験ユニットの設定で動画コメントを消していたせいもあって、動画の中身の意味がまったくわかっていないようだった。
「駄目だめダメ絶対駄目このPVだけは絶対使っちゃだめ!!」
 リンは絶叫してから、頭を抱えてうずくまった。
「リン……ごめんなさい」ミクは自分の指を組むようにして握りしめつつ言った。
「いやいいよ、てか、そんな切ない顔をされたって、間違って覚えた内容がこのPVだってんじゃ私らギャグにしかならないんだってば」
 ミクの覚えた、このステージのデータは使えない。それでも、音はなんとかなるにしても、振付の部分、ステージの間にひととおり使える一連の動作データが無いままだ。通常は、モーションやダンスの総データを作成する自体は、依然として何時間、何日とかかるのである。
「ミクちゃんたち! もうすぐ時間だよ!」
 控え室に、《札幌(サッポロ)》のプロモーション・ディレクターが入ってきた。PVやステージの監督だが、実質は、《札幌》におけるVOCALOIDらの活動全体のスタッフの総括も行っている。
「わわわわわわ、㍗さん!」リンはがばと起き上がってディレクターに駆け寄り、「それがもう、一大事っスなまらわやっスよ! あれがこうでそうなって」
「なに、ミクちゃんが間違ったPVを覚えた?」ディレクターはリンの説明を聞くと、落ち着いたまま言った。「逆に考えるんだ。『そのままステージにしちゃってもいいや』と考えるんだ」
「いやおねぇちゃんはそれでも平気ってかすでにカオスなキャラが定着してるけど私はどーなるんスかッ」
「……うーん、とりあえず足りないのは一連の振付の動作データで、急いで用意する必要があるってことだね」ディレクターは言った。「PVのプロデューサーやアップロード主たちに連絡をつけてみよう」
 ディレクターはミクが一応覚えた動作データのメモリーチップを持って、控え室を出て行った。
 リンはぐったりと壁にもたれかかって、その後しばらくの間、じかに床に座っていた。ミクが無言でそのリンを覗き込んだ。
「いやもういい、あきらめた」リンは重い声で言った。「たぶん間に合わなくて、もうステージのデータが全部揃ってる別の曲になるんだろうけど、穴さえあかなきゃいい。㍗さんからその指示が来んのを待つわ↓」
 が、ディレクターはすぐに戻ってきた。
「できたよ、動作データ」
「まじっスか!?」リンは飛び上がり、ほとんど悲鳴のように言った。
「まあ、でも、ミクちゃんの覚えて構成したデータには『ぜんぜん眠れん』と『ぢゅわああああああん』の部分しか、つなげて使える部分がなかったらしい」ディレクターは言った。「で、PVプロデューサーのひとりが、その2つだけの動きから、あっというまに作ってくれたよ」
「……ちょっと待って、その動きだけからって、一体どういう」リンは呻いた。
「時間がないよ。すぐに出て!」ディレクターは、動作データの入ったメモリーチップを、ミクとリンの電脳インカムのチップ・スロットに挿入した。
 ──本当にその2つの動きだけでできていた。(→ニコ動)(→ようつべ



 リンはステージの真下に設けられた空間、ミクのすぐ隣に落下した。
 客席からは歓声が巻き起こっていたが、リンはそのまま潰れた虫のように伸びたまま動かなかった。
「いいよいいよ〜最高だよっ!」ディレクターがその二人に向けて叫んだが、その直後、背後の今回の協力者たちと思われる人々の方に気づき、そちらに行きながら、「どうですかプロデューサー! 今のステージ、最高じゃないですか!?」
 リンはうつ伏せに伸びたまま微動だにしなかった。
「……リン?」ミクがそんなリンをのぞきこんだ。「大丈夫……」
「大丈夫だけど疲れた」リンがそのまま呻いた。「いや、なにより今のステージで。肉体じゃなくって、精神の方がものすごく」
「え」ミクはこくりと首をかしげ、「今の何が、精神が疲れたの……」
 リンはぐいと首を曲げてミクを見上げた。
「てか…………そんなんだからお下劣PVを気づかずに平然と平気で全部覚えちゃったりするんだッちったぁ反省してよッ」
 なお、この一連の出来事によって機会を逃したため、この曲のごく当たり前のステージPVが作られるのは、このかなり後まで月日を待たなくてはならなかった。