パワーシンガーは急に止まれない(6)


 亞北ネルが少年を背負って歩み入った街は、人気(ひとけ)がないというわけでもないが、何か異様に静まり返っていた。何が異様な点なのかはすぐにわかった。商店街なのに、何がこれほど静かなのか──音楽が一切、聞こえてこないのだ。街で聞こえる音楽にも期待していたネルは、そばの店先で尋ねてみた。
 寂しげに店員が答えるには、なんでも、この街にも少し前、”音楽の権利管理”をする、とある”悪名高い団体”がやってきたのだという。強制的に利用料を徴収されるのをおそれて、皆、音楽をかけなくなってしまったのだ、ということだった。
 ……ネルはそれを答える店員と、その話題に沈んだ様子を見せる人々をつかのま見回した。自分がもしアーティストなら──例えば、仮にVOCALOIDなら、この人々に歌を与え、希望を与えることができたろうか。
 ネルは首を振った。今の自分は、背負っている少年ひとりを救えるかもわからないのだ。今は少年を救うことだけを考えなくてはならない。
「ごめん、もう少し我慢して」見る間にも弱ってゆき、不規則な息をようやく継いでいる少年に、ネルは肩越しに言った。
 ネルは街路を通り抜け、街の郊外の方に向かい、長い坂を上がりはじめた。……この街に来た目的は、この先の街のホールだった。そこに、この一帯を活動の場としている”楽団”がいることをネルは知っていた。前にホールの近くを通りかかったとき、リハーサルの音楽がたえまなく聞こえてきたのだ。
 この坂をのぼってゆけば、きっとその練習の音だけでも聞こえてくるだろう。少年の命をつなぐには充分すぎるほどの、生演奏が降り注いでくれるだろう。



 しかし、いくら坂をのぼりホールに近づけども、やはり何も音が聞こえてくることはなく、……やがてネルは、人影も明かりも見当たらないホールの、中のがらんどうが垣間見える半開きの正面扉の前に、呆然として立ち尽くすことになった。
 ネルは、そばを通った町人、通行者を振り返って疑問を発しようとしたが、うまく言葉にならなかった。通行者は、毛布の少年を背負ったみすぼらしいネルの姿に疑問を覚えながらも、このホールの楽団を訪ねたということくらいは察したようだった。
「このホールにいた街の楽団なら、もういないよ。解散したよ」通行者は、眉をひそめてから言った。「少し前の競合(コンペティション)に落ちて、援助が受けられなくなって、楽団の維持費が支えきれなくなったんだ」
「そんな」ネルは自分と少年の重みに、膝をがくがくと震わせた。「なんで……そんなことって」
「茶番だったんだよ」通行者はそのネルの絶望の声を、言葉通りに通行人に向けて疑問を発していると受け取ったらしく、説明した。「その競合に、あの例のでかい”広告代理の巨大企業”が介入してたんだよ。この国の情報流通を実は全部支配してるとかいう、あの大企業がさ。競合の勝者は、そこがあらかじめ『決定して』あったんだよ」
 通行者は、自分の街に起こったその出来事を思い出し語るうちに、次第に声に憤慨を募らせていった。「……巨大企業(メガコープ)は、何もかも自分の思うとおり、自分の都合のいいようになるとか、なるべきだとか、しても構わないとか思っていて、それで他の誰かの生活が台無しになろうが、犠牲が出ようが、何とも思わないんだ」
 なお、ネルの非情な”謎の雇い主”とはつまるところ、少なくとも一番上は、その広告代理の巨大企業だということは、以前からうすうす気づいていたことだった。──しかし、ネルはこのときはそれを思い出すことさえもなく、少年を負った背をかがめたまま、ただ放心したようにその場に立っていた。
「どうして」扉を見上げたまま、独り言のように呟いた。「なんでなのよ……」
 やがて通行人が、そんなネルにもう話すことがないと知って立ち去ってからも、ネルはホールの開け放たれた入り口の前に立って、動くことができなかった。



 ホールの中には、ほのかな暗闇の中に破り取られた楽団のポスターのあとや、埃をかぶった客席や棚や演題の上には、何ヶ月も前のプログラムや、演奏会のチラシ広告の切れ端が見えるだけだった。楽器や楽譜のような、楽団や音楽の残した直接の名残すらもなく、辛うじて音楽が存在していたらしい残滓、という程度のものだった。
 ネルはホールじゅうを駆け回り、そんなものを次々と求めてとびつき、むなしく手でかき回し、床に撒き散らした。何かの手がかりや痕跡を求めたところで、”音楽”がここに帰ってくる、やってくるわけがなく、とうに無駄な努力と知りつつ、ネルは錯乱したように、楽屋に飛び込みホールに戻り、もつれ、よろめく足で走り回った。
 ネルはつまづいて、床に転がった。……すぐに立ち上がろうとして、転んだのは足の疲労のためのこと、そして、もう足が少しも動かないことに、このときはじめて気づいた。少年をここまで背負ってきたせいで、足が限界なことに、今この瞬間まで気づいていなかったのだ。足だけでなく、ただでさえ普段から空腹と疲労をおびている体からは、その隅々のどこからも、動く活力が何も湧いてこなかった。
 ネルはつかのま、そこに肘だけついて、倒れたままでいた。どのみち、立ち上がっても何にもならない。自分には何もできない。……だが、そんなことが、何の問題なのだ。自分が立ち上がらなければ、自分が諦めれば、少年は死ぬほかにないのだ。
 ネルは三たび身を起こし、二たび膝をつき、そして三度目には地べたに沈むようにうつ伏せに崩れ落ちた。
「もういいよ……おねえさん」そのとき、かすかな少年の声がした。「もういいよ」
 ネルは床の上から首だけを上げ、振り向いた。
「きっと、ボクは……もとから、目がさめることなんて、ないはずだったんだよ。外の世界なんて、見られないはずだったんだよ」ホールの壁際にネルが横たえたときのまま、毛布にくるまってうずくまった少年が、不規則な息の中から言った。「なのに、……外を、外の世界を、見られたから。おねえさんのおかげで、見られたから。もういいよ」
 ネルは顔を上げ、瞼と唇を震わせながら、少年を見つめた。
「おねえさんに、外の世界を見せてもらったから。……空も風も、雨の音も、陽の光も、雲が光るのも……おねえさんの声も。全部、おねえさんがくれたから」少年は消え入りそうな声で言った。「だから、おねえさんには、もうたくさんのものを貰ったから……もう、充分だよ。もういいよ」
 少年はそう言ったきり、そのまま静かに目をとじた。あとは、その不規則な息が、さらに時ごとに弱くかぼそくなっていく、息づかいだけが、かすかにホールに響き続けた。
 ネルのわななく指が、埃の積もった床を噛んだ。
 地べたに這いつくばり、ネルは震える手で、暗闇の中の床に必死に手を伸ばし、手探りを続けた。何が見つかるあても、それが何になるわけでもないというのに。にもかかわらず、手の届く限り、なにかを探し、なにかを求め続けた。
 ──天よ世界よ、もうこんな私のことなんて、見捨ててしまいましたか。それならせめて、晴れた空を仰いで、あなたの美しさを称えた、この少年にだけは。
 あのとき私が、道端の電子ジャーを見つけたことが。この少年を助けることができたことが。私が、この少年とめぐり逢うことができたことが。──それらが、あなたがあのときくれた、本物の奇跡だったのだとしたら。
 あと一度。あともう一度だけ。奇跡をください。



 そのとき、ネルの指先に、硬い異質なものが触れた。ネルはゆっくりと、それを掴み、手許にたぐりよせた。ホールのかすかな光の中で、目をこらしてそれを見た。
 床にうちすてられていたそれは、ショルダーキーボードだった。旧時代の軽量鍵盤()に形状が似せて作られているが、多目的ライブラリ内蔵の、一そろいの楽器音声モジュールだった。それは、たった今つくりだされ、弾き手のもとに届けられたものであるかのように、真新しい表面の光沢を放ち、薄明かりの中に輝いているように見えた。
 ……あるいはここで、疑問が生じるかもしれない。このキーボードが、去った楽団の残していった、忘れていったものだとして、少なくともさほど古びても壊れてもおらず、一そろいのモジュールを内蔵し、弾ける状態が揃って、床に転がっていた、などということがありえるだろうか。しかし、この物語のこの過去の箇所について、現在となってはその問題について検証する手段は皆無である。
 ネルはキーボードを抱え、這うようにして少年の傍らに戻り、壁に背をもたせた。一度、息をついた。ショルダーキーボードだったが、ネルはそれを膝の上に横置きにした。
 鍵盤の黒檀と象牙コントラストの上を、指がゆっくりとなぞった。そして、亞北ネルの、カウボーイ級のキーボード技術を持つその指が動いた。悪意工作の手先としてコンピュータキーボードを叩く際の容赦ない手つきからは、信じられないほど、その指は優しく動いた。ネルの思い出せる限り、奥底から呼び起こせる限りの穏やかな曲を奏でるために、その指は繊細に動いた。
 子守唄のようなキーボードの音色が、もはや主のいない楽団のホールに流れていった。決してアーティストに、ヒロインになることのできなかった、卑小な工作員の手で、瀕死の、たったひとりの聴衆のために。
 ……やがて、ネルは手を止めると、首を曲げて、傍らの毛布の少年を見た。目を閉じた少年は、薄暗い中にまだ顔色が悪いのが見える。ためらってから、顔を近づけ、額に触れてみる。
 まだ肌は冷たい。だが寝息はおだやかに、規則的になっているのがわかった。
 ネルは毛布をかきよせると、少年の傍らに寄り添い、力なく冷えた少年の体に手を回した。自分の心身に芯からの温かみが欠けている、いつも自分が冷たく感じられることが、いつにも増して悔やまれた。それでも、ネルは自分のなけなしの温かみを少年に与えようとでもいうように、その体をかき抱いた。やがて、眠る少年の体に、温かみが戻ってきたのを知るよりも前に、ネルは深い眠りの淵に沈みこんでいった。



 翌朝、ネルは街で買い集めた缶詰や予備の服や、携帯やキーボード用の電池などの詰まった袋を両手に抱えて、少年の待つホールへと帰り道を歩いていた。
 引っ越して職をかえようか。ならば工作員のメモリを捨てて、歌声を取り戻せる。いや、キーボードを始めるのもいい。少年がVOCALOIDなら、二人で音楽業界をめざすのか。いや、そんな大それたことでなくとも、単に故郷に帰ろうか。少年を新しい家族として連れ帰ろうか。歩きながらネルの表情には自然と、ぎこちなくも優しい微笑が広がっていた。
 あの少年と二人なら、世界は灰色ではなく、明るく美しく見えるのだろうか。そうでなくとも、これからネルにとって明るい世界を、二人で探すことができるのだろうか。
「その前に、名前を聞かなきゃ──あればだけど」
 ネルはホールに続く坂道をのぼっていった。雨後の道路の土には、トレーラーか何かの大型自動車の車輪の跡らしき、深く広い轍が残っているのに気づいた。
 ホールの前に帰ってくると、正面扉が、大きく開け放たれたままになっていた。
 ネルはかすかな予感を抱きながら、ゆっくりとホールの中に歩み入った。中は昨夜以上にがらんとしていた。
 ……少年の姿はなかった。ショルダーキーボードもなかった。毛布その他、ネルの調達した少年の身に着けていたすべて、少年が現れて以後のもの、少年の存在の証拠は、何もかも消えうせていた。
 ネルは無言のまま、ゆっくりとホールを出て、道に残った轍を見つめ、道の彼方を見つめた。人攫いの電脳牛泥棒か、ブレードランナーか、この轍を残していった何かと共に立ち去ってしまったか、攫われていったのか。
 それとも、ネルとあの少年との時間は、すべてが白日の夢で、幻と消えうせたのか。
 ネルはただ道端に立ち尽くし、少年の消失の事実とこれまでの経緯について、思い起こしながらも考えるでもなく、彼方を見つめていた。……やがて、次第にそんなネルの胸の中に浮かび上がってくることがあった。
 それまでの自分に、幸せが残っていたとしても、自分の奇跡は、幸福は、あの少年のために、あの命をつなぎとめるために、本当にすべて使い尽くしてしまったのだと。使い尽くしたあとには、あの少年自身も、自分の幸福も──そして、少年のその後の安泰をこの目にする安堵感、たったそれだけさえも、一切が自分の手元には残らなかったのだと。
 ……だが、こんな卑小で何の価値もなく、何者にも省みられない自分が、あの少年のためにそれだけのことができた、あの少年を救う手助けができたのだ。それだけでも、自分などには過ぎたことだったのだ。ネルはそう思おうとした。
 しかし、ネルの涙は止まらなかった。故郷を離れてから長らく、亞北ネルの涙は、とうに出尽くし、枯れ果てていたはずだった。とうに一人でいること、一人になることには、慣れきっていたはずだった。しかし、立ち尽くして彼方を見つめ続けるネルの目からあふれ出す涙は、どういうわけか、決して止まることはなかった。



 かれらは互いの素性も、名前さえも知ることはなかった。亞北ネルがふたたび、あの少年の姿を目にし、その名を知ることになるのは、さらに遥かに後のことである。(動画末尾参照 →ニコ動 →ようつべ) が、この物語がそれに追いつくまでには、まだかなりの間、この後の鏡音レンの足跡を追い続けなければならない。




(続)