白虎野への道 〜 Frozen Beach


「これはボカロがマスターに呼びかけてるラブソングなんだ。そのつもりで歌ってくれよ」銀髪オッドアイの男性ユーザーはそう言った。「マスターのために、心をこめて呼びかけるんだ」
 MEIKO鏡音リンの前でそう言うユーザーの言葉をよそに、MEIKOはざっと歌詞と譜面を眺めてから、
「で、『マスター』って何のことなの?」
「何って、ボカロのマスターだろ」男性ユーザーは苛ついたように言った。「ボカロのソフトの持ち主だよ」
 MEIKOは首を傾けるように素っ気なくユーザーを振り向いた。このユーザーの概形(サーフィス;電脳空間内イメージ)は、銀色の長髪、両目の色が違う瞳、尖った顎、胸板が露出した黒と銀の服など、いかにも安手のゲームやアニメからの拝借物をつぎあわせた『お気に入りのオリキャラ』の姿である。その姿をざっと眺めてから、MEIKOは言った。
「ソフトの持ち主なら、それ、アナタのこと? アナタに呼びかけるの? 自分へのラブソングを、私やリンに自分に向かって呼びかけさせる歌を作った、そういうわけ?」
「違う! この歌では、『マスター』は”俺”のことじゃないんだよ」
「わかんないわ。ぜんぜん」
 わかっているくせに、とリンは思った。VCLDというものをわかっていないのはこのユーザーであること、そして、リンにこの状況を――そして、”音”についてのもっと何か重要な色々なことを――教え込むためにこう言っている。MEIKOの毎度のことだった。
「『マスター』ってのはボカロのソフトの持ち主だ。つまり、ボカロを持ってる、ボカロと交流したり恋愛したりする人間だ」銀髪のオリキャラ男性ユーザーは見かけによらず、辛抱強く説明した。「だから、ボカロ物では、マスターという言葉が出てきたら、視聴者が自分がマスターのつもりになって聞くのが当たり前になってるんだ。『マスター』は視聴者が一番感情移入できるキャラのことなんだ。そういう設定なんだよ」
「ぜんぜんわかんないわ。辻褄がひとつも合わない」MEIKOは素っ気なく言った。「まず、VCLDソフトを持ってない視聴者は、明らかに、その『マスター』とやらじゃないわけよね。で、VCLDソフトを持ってる視聴者は、その自分が持ってるVCLDの『マスター』とやらかもしれないけど、その動画の中では『マスター』では絶対ないわよ。なぜって、”その動画の中で歌ってるVCLDのソフトの持ち主”とやらは、アナタでしかないんだから。やっぱり『マスター』ってのはアナタを言ってる以外にどうやってもありえないんじゃないの? アナタが自惚れてる歌なの? これ」
「違う!」オリキャラ男は、電脳内概形でなければ顔色が変わってでもいるだろう激昂した声で言った。
「じゃ、『マスターに呼びかける歌』って設定は根本的におかしいわ。『マスター』なんてものを出してる歌や動画や創作は、そういう意味じゃ、どこか全部おかしいわけだけど。少なくとも、それが視聴者を指すとか、動画作者以外の持ち主を指すとか、誰でも感情移入するキャラだから『マスターって設定でさえあれば好き勝手なオリキャラだろうが何だろうが出しても誰でも許す』、その理屈はおかしいのよ」
「理屈じゃないんだよ! ボカロは昔っからそういう設定なんだよ! なんだっていいだろ!」
「なんだっていいなら、どうしてわざわざ好き好んで、そんな辻褄もあわないような設定にするの?」MEIKOは肩をすくめ、「まだ”あいどる”じゃなかった頃のVCLDに、人間に買われて『マスター』の命令に従うメイドロボットだとか何とかみたいな設定を考えた輩がいて。それを、今になっても、自分のアタマじゃ何も考えもせずに、延々と真似してるだけなんでしょう?」
「……歌えないってのかよ。ボカロが、人間の作った歌を」オリキャラ男は低い声で言った。――結局のところ、このユーザーは、『ボカロ』は人間の命令に従うものだ、とか、そのメイドロボとやらのような設定を、自分自身でも本気で信じているらしい。そもそも、それ以外の理解の仕方ができないから、創作内でもそんな設定を真似る以外に能がないのだろう、とリンは思った。
「歌っても、どんなのになるかわかりゃしない、って言ってるのよ。今までだって、その手の歌はいくらでもあったわ。でも『ラブソングなんだから、そうなるように歌う』なんてのは、私達のすることじゃない。歌がどんなふうになるか、vsqを作るのは、アナタの仕事。そう聞こえるように作るのは、アナタ自身がやらなくちゃいけないこと」MEIKOは人差し指だけをユーザーに向け、「VCLDは『歌のため』に歌うのであって、『何かとか誰かのため』に歌うわけじゃない。――わけのわからない『マスターだか何だかのため』か知らないけど、そのための歌になるように作るのは、全部vsqを作るアナタがやることよ」


 MEIKOはよく言う。歌は歌として存在するものなのだ。作られた瞬間から、歌自体は作り手やその動機からはまた別に、確実に存在する。別の歌い手や聴き手によって元から離れて存在する。まして、どんな作り手の歌でも無限に歌いネット上に無数に拡散させる自分達VCLDは、その純粋な歌のみの化身なのだと。
 何から何に向けたかの動機はあるとしても、聴いた方はそう感じないかもしれないし、聴かれるかどうかもわからない。そして動機とその結果は何も関係ない。歌い手自身が恋をすれば、恋した相手に向かって歌えば、素晴らしい恋歌が歌える。それは漫画の『イヤボーン』と同じくらいの、ご都合主義の虚構だ。安易でわかりやすいご都合だからこそ売れ、そういうアイドルや歌手を描いた安手の作品が作られるにすぎない。
 ことに、vsqだけに応じてどんな歌でも歌う自分達は、誰かに向けたり誰かのために歌うわけではない。作者のためでも視聴者のためでも歌詞の中の誰かのためでもない。歌を存在させる、それだけのために歌うのだ。
 ……それが、MEIKOがいつも話していることだが、理屈はわかるようでわからない。歌が何からも独立している、というのはわかる。しかし、そういう歌を、どう歌えばいいのか。歌えないというわけではないが、MEIKOがいつも言う、向ける相手がいない歌、向かう方向がいない歌というものが、感覚的につかめない、実感がわかない。自分が何をやっているのか、何の方向を向いて歌えばいいのか。宙に浮いたような不安がある。MEIKOの言うことが本当だということは、リンのデビュー以来、年々実感を増しているが、それが実感できればできるほど、漠然とした不安は大きくなっている。
 ――そして、歌以上に何をやっているのかわからないのが、今、リンの目の前にいる女性プロデューサー、偽師匠Pの姿だ。
 リンがその部屋に入ってきたとき、偽師匠Pは、いつもと同じ、唸り声だの笑い声だの、小鳥のさえずりの真似のような声をひっきりなしに発しながら、寝床の上をごろごろと転がりつつ、譜面に激しく何かを書きつけていた。
 やがて偽師匠Pは起き上がると、突っ立っているリンにそれを手渡した。
 リンは、その書きつけられた歌の、歌詞をざっと見た。
「何コレ。縦読み!?」
 譜面とvsqの方にも目を通して、リンは頭を抱えた。「平沢さんさァ……」
「ん〜?」
「なんなのコレはさ」リンはうめくように言った。「その……何考えて作ったの、コレ」
「んっとねぇ、ソレは」偽師匠Pは思い出すように宙を見上げ、とても年齢や知能がリン以上とは思えない舌ったらずで言った。「いつも掃除洗濯をしてる妹に対して、がんばったねぇ! という気持ち」
 リンは目をむいて歌詞を見つめた。「ソレを、妹さんに伝えようと思って、コレなの!?」
「へ? ああ、伝えるとかじゃなくて、なんかそんなようなこと考えながら作ってたら、そんなんができた、っていぅか」
 リンはその場にうずくまり、頭を抱えた。
「どしたのぉ? どっか痛いの?」
「いや色々と痛いような気分だけどさァ」
 ……リンは、偽師匠Pに、以前からの疑問を語った。自分たちは、作者の中身、作る方向性に関係なく、音を発するだけなのだと。その自分の活動が、何をやっているかの方向性がいまいちわからないこと。
「――うーん、えっと、わかんなくちゃ駄目ぇ?」
 偽師匠Pはまたしても思い出すように視線を上げて言った。
「音って、こんだけずっとやってても、わかんないこといっぱいあるしさぁ。でもそれより、自分がやんなくちゃならない『音が何だかわかる』のって、なんかコワくない?」
「なんかって?」リンは眉を上げた。
「だって、音っていうのが何なのか、すっかりわかっちゃったら、それしか作らなくなるかもしれないし。いや、わかったことがないからどんな気分か知らないけど、あ」
 偽師匠Pは不意に、振り返るようにリンを見つめ、
「いや、それより、聴く方がコワいよ! 聴く人の方がみんな、『音が何だかわか』ってたらさぁ! ナニを聞いたって、どんな音を聞いたって、その方向としてしか聴けなくなるよ!」偽師匠Pは、目を横三重線にして、上に向けた両掌を震わせながら言った。「自分の音を全部、そんな聞き方されるかと思ったら、コワすぎるよ」
 リンは突如思い出した。それは、MEIKOがいつも言っていることと同じだった。
 音の世界は、すべてを知り尽くすのには大きすぎる。なのに自分はあやうく、その世界を何かにおしこめるところだった。何もかも『マスターとボカロ』という図式におしこめてしか理解することができない、作り手や受け手と、リンはあやうく同じ轍を踏むところだったのだ。
 ――リンは偽師匠Pの楽譜を見下ろした。これは伝えることや方向があるのかないのか、悩むのさえばからしくなるような代物だ。少なくともこの偽師匠Pの楽譜は、わからないことに不安を感じることは決してない。
 この偽師匠Pの音と共にあれば、音の世界の全貌の理解には決してたどりつくことはなくても、自分が理解できないことに関して、不安を感じることはないだろう。リンはそんな気がした。