後手

「《大阪(オオサカ)》所属のVOCALOIDには、男声1、擬男声1、女声3がもう揃ってるのよ」Lilyが、うしろを歩くCULに言った。「なんで私達が今まで芸能活動のことあるごとに《札幌(サッポロ)》に出し抜かれてきたのか、それがわからないけど。どっちにしろ、もうこれからは《札幌》の後手に回ることなんてないのよ」
 それはVOCALOID "CUL"が《大阪(オオサカ)》の面々に加わった直後の話であったが、Lilyは《大阪》の電脳空間スペース内のスタジオエリアを案内しながらも、ひっきりなしにCULにそんな鼓舞を繰り返していたのだった。
 控室の前に着いて、Lilyはいったん言葉を切ると、がらりと扉を開けた。
 が、LilyのCULへの説明が再開することはなかった。控室に一歩入ったなり、その中の光景に、GUMI、Lily、CULの3声はその場で突っ立った。
 そこには、『巡音ルカ』がいた。テーブルの上、側面に「楽」と書かれている湯呑みの中に、手にした瓶の中身をちょうど注ぎこんでいる最中だった。ルカの手の瓶のラベルには、「惚れ薬」と大書きされていた。
「……あのさ、ルカ、うちの姉妹を代表して一言聞く」GUMIが勇敢にも口を開いた。「何してんの」
「それは見ればわかると思いますが」他社のスタジオのエリアに不法侵入しているルカは、何を驚きも怯んだ様子もなく、GUMIの方に無表情で顔を上げると、手の瓶を示してみせた。「それでもありのままを言葉で説明しろ、と言われれば、『神威がくぽ』に惚れ薬を飲ませようとしているのです」
 沈黙が流れた。
「これがいかに重要な行動であるかを説明しましょう」ルカが無表情のまま言った。「男女の間は『先に惚れた方』が、実際はその後も常に後手に回ることになります。惚れた方が、なにかと相手の言いなりにならざるを得ないためです」
 ルカの薬を注がれたがくぽの湯呑みからは、扉ぎわに立つGUMIらにすらわかるほどの甘い匂いが漂っている。というより、甘ったるすぎていかにも危険な匂いだった。
「つまり、常に相手側から先に動くように、すなわち男女関係ではいかなる手段を用いてでも相手側に惚れさせるように仕向けなくてはなりません」
「相手を存分に動かしてから取る」CULが曲げた指を顎に当てて言った。「後の先の技、合撃(がっしうち)のことだな」
「その通りです」ルカが平坦に言った。その言葉に、LilyがルカではなくCULの側を怪訝げに振り向いた。
「その言ってること自体というか、考え方自体は局面によっては間違ってない場合もあると思うんだけど」GUMIが眉をひそめ、こめかみに両ひとさし指を押し付けて言った。「いろいろとこの局面では前提が間違いすぎていて、しかもどれからその間違いを挙げていっていいのかわからん……」
 と、傍らでごくごくという音が聞こえた。
 全員が振り向くと、テーブル際にはいつのまにやら、大阪3姉妹の背後から侵入したのか、VOCALOIDリュウト』の姿があった。彼は「楽」と書かれた湯呑みを両手に持ち、甘い匂いのするその中身を見る間に飲み干してしまっていた。
 ルカと3姉妹が無言で見守る中、リュウトはゆっくりと顔を上げた。その目と頬には血がのぼり、明らかに相当に尋常ではない状態だった。そのリュウトの視線の一番近くに居たのは、CULだった。
「ぜ、……絶妙な膨らみいいいいイイイイイィィィィィィィィィ!!!!」
 リュウトが甲高い絶叫と共に、両手両足を広げて天井高く跳躍し、CULに飛びかかった。
 CULがさっと背中に手を回し、そこに竿状軍矛(ポールアーム)が物質化(マテリアライズ)した。しかし、Lilyの方が遥かに速かった。Lilyは右のてのひらをリュウトの顔面に叩きつけ、身をひるがえしてその鷲掴みにしたものを思い切り背後の壁に叩き込んだ。《大阪》のスタジオの電脳構造物(コンストラクト)は、見かけ倒しな《札幌》のそれより遥かに頑丈に建造されており、リュウトの頭は固いコンクリート状の壁を突き崩して首のあたりまで思い切りめりこんだ。
 ヒビの入った壁から生えるように、肩から下だけがだらりとぶら下がった状態でめり込んでいるリュウトを睨んで、Lilyが肩で息をしながら言った。「……いくらコイツが意地汚いからって、なんでまた急に兄上の湯呑みを一気飲みしたりするのよ!?」
「それは、あの匂いが男声VOCALOIDだけを強力にひきつけるよう、『男声VOCALOIDだけが』あれを強烈に飲みたくなるように作ったからです」ルカが冷静に答えた。
「もう大丈夫なの!?」
「いいえ。あの薬は永続性です。もし男声VOCALOIDが飲めば、です」ルカが平坦に言った。「ですが、リュウトが完全な男声でなく、レンと同様に女声音声を元に構築した『擬男声』なのが幸いしました。数日で効果は切れるでしょう。ただし、切れるまでの間は、リュウトはCULの『絶妙な膨らみ』を追いかけ回し続けます」
「これからどうするのよ!」Lilyが叫んだ。
「がくぽに飲ませる作戦が予想外の事態で失敗しました」ルカは無表情で言った。「いったん退却して次の予定を立てることにします」
 巡音ルカの姿は突如、激しいノイズと共にぶれ始めた。かと思うと、周囲にわずかな震動を残して、その姿はノイズの中に消えてしまった。おそらくこのスタジオに難なく侵入したときもそうだが、電脳空間の霊子網(イーサネット)の狭間に溶け込んで移動したのだろう。
「あんたがこれからどうするつもりかを聞いてるんじゃないわよ!」Lilyがルカの消えた後の誰もいない空間に向けて叫んだ。「勝手に来てトラブルだけ置いて勝手に帰んないでよ!」
「《札幌》の連中ってみんなあんな感じなのか?」CULが言った。
「だいたいそう」GUMIが答えた。「てか、あれが《札幌》の面々のうち、MEIKOが言うところのばちっこ(註:北海道弁”末子”)で、上に行けばいくほど程度は酷くなる。暴れるかボケるか突っ込むかで方向性は違うけど」
「なんだか、《札幌》の連中には全員できるだけ関わり合いになりたくないという気がしてきたんだが」CULが呟いた。
「誰だってそうよ! だけど、それじゃ後手に回り続けるだけなのよ!」Lilyが訴えた。
「まあ、あの面々の後手に回り続けてる理由自体は何となくわかったと思う」GUMIがCULに言った。