お約束

 亞北ネル工作員である。二束三文のバイト料で、名も知らされない巨大企業(メガコープ)のために、様々な意味でぎりぎりの線の行為に手を染め、何かの拍子で切られることが前提の、使い捨て要員である。そして今のネルは、その危険な線でも最たるもの、”VOCALOIDらの練習場にじかに潜入する”、という任務に及んでいるところだった。
 忍び足で踏み込むネルのその姿は、過酷な任務と待遇の連続にくたびれた全身の表情と容貌、荒れて艶の失せた髪と肌、この上もなく薄汚れ疲れきった姿だが、資金も他の仕事のつても(そして胃袋の中も)何もかも底をついた極限の状況で仕事をするのは、毎度のことである。そんなことで工作員の勘を鈍らせたりはしない。生存の欲求(と空腹)こそが彼女の動機だった。そして、どんなちっぽけな企業であれICE(攻性防壁)の内側へと潜入するのは容易ではないところ、VOCALOIDのようなAIの出入りする場に潜入するというのは(その電脳空間デッキを叩く能力の部分だけとってみれば)操作卓(コンソール)カウボーイにも匹敵する技術だった。
 ネルは万遍なくその部屋の中に目を配った。小狐を思わせる可憐にも鋭い瞳は、疲れた目から、任務が進むにつれ次第に油断ない眼光を帯びた。このエリアは、練習場や音楽室というよりも、アンティークな書斎のようになっている。木目と塗りの古風な家具が並び、薄暗い控えめな明かりにそれらが淡い色に照らされている。ほのかに磨かれた木の匂いまでが擬験(シムスティム;全感覚擬似体験)情報で伝わってくる。あるいは、ここはやはり書斎か何かで、練習場は先にあるのかとも思ったが、ここが目的のエリアである証がすぐに見つかった。ネルの目の前に、やはり落ち着いた色の木目調の譜面台と、その上に開きっぱなしの楽譜があったのだ。巨大企業(メガコープ)が喉から手が出るほど欲しがる、VOCALOIDらの新曲の情報である。
 ネルはやはり小型の肉食動物のような、無駄のない静かな動きでそこに歩み寄り、周囲のセキュリティに気を配りつつ、譜面を覗き込んだ。一面に書き込みがあったが、見るからに達筆な上、ネルには何の言語だか符丁だか暗号だかすらも判断できなかった(イタリア語なのだが、ネルにわかるわけがない)。
 ネルはしばらく呆気にとられた後、携帯電話を取り出し、そのカメラで譜面を撮影しはじめた。
 しかし、それがかなりのページ数があり、相当な時間と携帯の容量を費やさなくてはならないことは、かなり撮影が進んでから気づいた。無論のんびりしている暇などないが、この時点で中断するわけにもいかない。内容が読めないので、楽譜のどのページのどこが重要なのか見当もつかないのだ。ネルは(こちらはカウボーイに匹敵するとは言い難い)自分の迂闊さに焦りつつも、必死でページを繰り続けた。しかし、もっと粗忽なことには、撮影に焦りすぎていて、部屋の奥から人影が現れたことにも気づかなかったのである。
「そこで何をしている〜〜〜〜〜〜ッ! 見タナァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 長身に燕尾服、黒髪を見事に撫で付けた男の姿だった。しかし、その形相は漫画に出てくる邪悪の化身か新世界の神を名乗る殺人鬼のように、しかめた顔がわずかな照明による陰影で真っ暗く彩られていた。
「その薄ぎたなイこソドろじみた格好で、楽譜をノゾき見に入って来タというわけデスカァーッ!」ほとんど風を切る音が聞こえるかの如く、滑るような早足で、その長身と形相が見る間に近づいた。「ただじゃあおきまセンッ! 覚悟してもらいマスッ!!」
 その言葉は西イングランド訛りと、それ以上に激しいイタリア語訛りが入っており、発音は非常にちぐはぐだが、いわゆる片言ではなく日本語としての文法は普通で、興奮のために言葉が乱れているのではないようだった。
 ネルは咄嗟に壁際に飛びのいた。が、その瞬間、男の左手が手首から先が見えないほどの速度で振りあがったかと思うと、肩口に強烈な衝撃が走り、ネルは背後の柱にほとんど叩きつけられた。柱に小さなナイフが突き刺さり、ネルは襟元近くの布でその柱に縫い止められていた。ネルは必死に柱と服からナイフ(オペラの有名な『トスカのキス』という場面に使うための小道具だったが、ネルにわかるわけがない)を引き抜こうとしたが、どうやっても抜けなかった。男の腕は凄まじい速さと精度である。ネルの服は(経済的事情により)サイズが足りず、布の余りもない。その余裕がない面積をここまで正確にこれだけの力で縫いとめるなど、尋常ではない。脱出のため服をちぎるのは(経済的事情により)質の悪い布なので簡単かもしれないが、そんな服なのでひどく破れるかもしれないし、もし破れれば(経済的事情により)新調は極めて難しいことも頭をよぎった。――あるいは、そんな余計な躊躇さえなければ、ネルにもなんとか脱出できるチャンスはあったのかもしれないが、すべては遅すぎた。
 燕尾服の男はもはやネルの眼前に迫り、その右手の方は、何か”四角い真っ白な塊”を鷲づかみにしていた。1辺がたっぷり1フィートはある、見るからにきわめて正確な寸法の白い直方体である。それを見た瞬間、ネルの背筋に、男の悪鬼のような表情にもナイフにも出なかった冷たい汗が一気に噴出した。カウボーイ技術の持ち主かつ巨大企業(メガコープ)の走狗の端くれである以上、ネルも聞いたことがある。高位AI、軍事や多国籍企業のAIが生み出し人間に提供するもののうち、カウボーイらに最も恐れられているもの。致死性のICE(攻性防壁)だ。電脳空間内でありえないほど単純な幾何図形の白色の姿をとるオブジェクトとは、高位AIだけが実現可能な、ありえないほどの統合性・高度性、すなわち絶対の死の色を示しているのだ。
 ――ネルの短く幸薄い人生、過酷な日々の長くひもじい記憶や、大切な少年とのほんのわずかな思い出が、その脳裏に走馬灯のように駆け巡った。
「そんな汚レタ手で楽譜をめくるなんテッ!! ユルセないッ!!」
 燕尾服の黒髪の男、VOCALOID "ZGV-6" TONIOは、ネルの目の前にその白い直方体を突き出し、バーチャル・オペラ歌手の圧倒的な声量で怒鳴りつけた。
「アナタッ!! この『石鹸』で手ヲ洗いなサイッ!!」