慣れこそすべて

「ふー、汗かいたあ」収録の直後、控え室に戻ってきた鏡音リンは、首のタイを解き無造作にボタンを幾つか外すと、襟元に指を入れ、胸元をぐいとくつろげた。
 神威がくぽは、その光景に吸い寄せられるようにリンの首元から胸元までを凝視し、ほとんど棒立ちでかなりの間その目線を続けてから、……しばらくして、何かに気づいたようにあからさまに目を反らした。
 リンは、そのがくぽの一連の動きにまったく気づいた様子がなかった。
 しかし、控え室に入る前にすでに、胸元の収録機器(金属アクセサリにも見える)を外して、服のその辺りをかなりくつろげていた巡音ルカは、そのリンとがくぽの一挙一動をすべて見届けていた。──ルカは無表情に無言のまま、リンが控え室から出て行く際に、そのあとについて出た。
 がくぽも出ようとしたところ、呼び止める声があった。「兄上、ちょっと待って」
 GUMIは、がくぽを控え室の椅子のひとつに掛けさせ、その前に立つと、なにやらがくぽの頭を両手で押さえた。そして、がくぽの目の前で、自分の服の胸元に指を突っ込み(普段からやや開いているのだが)ぐいと押し下げた。
 しばらくの沈黙が流れた。GUMIは、がくぽの反応を観察し続けてから、
「まあ、私に反応しないのは、とりあえず普通というかそれでもいいとして」
「何をする!」がくぽは叫んだ。
「兄上さァ、今さっき、リンの胸元には反応したけど、その前のルカの胸元には、何も反応しないで、平然としてたでしょ」GUMIは言った。「それは女の目のハタ目から見ても、男性として何かが確実におかしいってのはわかるよ。答えようによっちゃすごく大問題。ルカに対しての問題だけじゃなく……」GUMIの声のトーンがだんだん落ちてゆき、「その、兄上自身について内々に家族として真剣に考えるべきとか……あとあとその特殊な嗜好、そのなんだ、もしかしたら”つるぺた萌え”かもしれないってやつが、家族まで巻き込んだ大問題になる可能性というか」
「ルカに対しても、平然としていたわけではない……」
 がくぽは重々しく口を開き、
「これまで、ルカは我に対し、日々ことあるごとに、幾度もあれと似たようなことをしてきたのだ。常日ごろから時々さきのようにさりげなく、二人きりになったときはほぼ必ず。わざとであるかはわからぬが」
「幾度もだとー!」GUMIは思わず叫んでから、「いやルカならそれは絶対あからさまにわざとだと思う」
「しかし、取り乱してはならぬ。平静を保たねばならぬ。そして克服し、ルカに対してはなんとか我慢し、見かけの上では平然を装えるようには相なったのだ……」
「……もしかして、むしろ克服しない方がよかったんじゃ?」GUMIは呟いた。
「GUMIの場合でも日々見ていて、我慢できるよう相なった」
「日々見てるだとー! 我慢してるだとー!」GUMIが叫んでのけぞったので、普段から開いた胸元ががくぽの眼前を塞いだ。「いやそれはとりあえず今は置いとくとして、問題はリンだ」
「然るに、リンには、慣れていないことのみが問題だ」がくぽは重々しく言った。「我にとってリンは──あの歳の、そうしたものや光景には縁のないと思われるリンを、そうした目で見ることがない我にとっては──それは何度目にしようとも──普段からその平坦さから訴えかけてくることもなく意識させることもなしに加えてその無防備さが我を油断させリンが時として見せる左様な姿には我は図らずも自制というものを失い──」
 がくぽは途中からはほとんど独り言のように、ぶつぶつと続けた。
「……あからさまに幾度もやるってルカに、問題の多くがあるとは思うんだけど」しばらくして、GUMIが結論づけた。「やっぱり、それでも問題の大半は兄上にあるよ……」