ダイエタリーカルチャーショックウェーブとその余波

 アラーム音を伴ってボディを覆っていたチャンバーが開くのと、鏡音レンが目を開くのとは、ほぼ同時だった。周囲の様子、VOCALOIDの物理空間用ボディを収納している設備の揃った部屋の光景は、これまでにもデコット(デコイロボット;遠隔操作用の予備の下位ボディ)を介して物理空間に出たときと、何も変わらない。……しかし、目覚めたレンのボディの傍らにいたのは、海外VOCALOIDであるSONIKAの姿だった。
「調子はどう? っても、そのデコットじゃ、どうせたいしてデリケートな問題は起こりゃしないだろうけどね」SONIKAはレンと、その隣のチャンバーの方も見ながら言った。ということは、隣のチャンバーで、鏡音リンも目覚めたらしい。
 レンは自分の手足を見下ろした。極東にある、自分の他のボディと何も変わらない。しかし、SONIKAがいるということは、ここは彼女らオクハンプトン所属VOCALOIDたちの活動地であるイギリス──つまり、レンはロンドンに置いてあったデコットにはじめて”入り”、利用しているわけだ。
「ホントに……他の国にもボクらのデコットが置いてあったんだ……」レンは呟いた。
「なんでも最初はブログ作者は、ライブの仕事用に《札幌》とか《浜松》とかのせいぜい2、3箇所にボディが置いてある設定のつもりだったらしいけど」隣のチャンバーから顔を出して、リンが言った。「有名ニュースサイトで、『世界各地』に義体が配置、とか書かれてから、あちこちでその設定みたいに言われて、とうとうそれで定着しちゃったらしい」
 これらの予備デコットは、《札幌》にあるリンやレンのメインボディであるバイオロイド系の高級なものよりは、生体系パーツの比率も低く、質も平均的なものである。見てすぐに違和感を覚えるようなものではないものの、どうしてもありきたりに整った容姿を組み合わせたような出来になっている。もっとも、ボディを動かすのは、レンのAIのかなり下位の無意識の義体制御用プログラムなので、レン本人は自分の身体が高級ボディでもデコットでも電脳空間内の映像の身体でも、実は感覚的にはほとんど変わらない。
SONIKA達は、ここ、ロンドンに置いてあるのがメインのボディなの?」リンが尋ねた。
「少なくともPRIMAと私ならそうよ。オクハンプトンの街の本社よりも、ロンドンの営業スタジオの方が物の設備は整ってるから」SONIKAは答えてから、しばらくそのリンの視線を感じたのか、「何か気になる?」
「いやその……」リンが口ごもった。
 注意して見ればわかるのだが、今のSONIKAのボディは、ライブなどのパフォーマンスでボディを使う芸能人アンドロイドらしからず、見るからに高級品ではない。言ってしまえば、リンやレンたちのこのデコットと同じグレードに見える。
「あのね、デザイン変更前のボディは高級品だったのよ。アンタ達のメインボディと同じ」SONIKAは苦々しげに言った。「それが、2月に急遽デザインが変更になったときに、新しいデザインをとりあえずデコットの簡易ボディで用意して──だけど、それっきり予算がつかずに、このボディのままなのよ」
 レンはSONIKAの、デコットではあるが設定デザイン通りによく作られているボディを見てから、同じほどの出来の、自分の方のボディを改めて見た。これからこの身体でロンドンを体感することになる実感が、いまだになかなか沸かなかったのである。
 ──しかし、同じ日のうちに、リンとレンの2声はいやというほどロンドンを”実感”することになった。



「お目覚めね、お二方。ようこそロンドンへ」いかにもヴィクトリア朝な調度の並ぶ応接室に、SONIKAに連れられるまま通されたリンとレンに向かって、VOCALOID PRIMAが言った。「さて、これからこのモヤとホコリっぽい旧都を観光するも自由、人間用のガイドを使うも、SONIKAに案内させるも自由、というところだけれども」
「勝手にひとを自由に案内させんな」SONIKAがうめいた。
「ただし。自由に散策あそばせ、という中にも、ただひとつだけ忠告しておくべきことがあるとすれば」PRIMAは続けた。「──それは、ロンドンの”食事”よ」
 そこでのSONIKAの表情の変化は、レンにもほとんど眉をしかめる音が聞こえるかのようだった。SONIKAは正気かとでもいうように、まじまじとその小柄な黒髪の少女の姿のPRIMAを見おろした。
「イギリスの料理の酷さは、旧時代、もとい前千年紀(プレ-ミレニアム)から連綿と続く悪評にして悪習。いえ、それはすでに伝統的(トラディショナル)なものと評するも、過言とは言えなくてよ」PRIMAはSONIKAのその様子にも平然と、リンとレンに言った。「貴方がたの出身、北海道(ホッカイドウ)の《帯広(オビヒロ)》は、牧畜地帯のようだけれど──きっとアイルランドのように、”採れた素材を生かす食文化”の土地ではないのかしら? 野菜を原型がなくなるまで煮込んだり、肉類を半分以上炭になるまで焼き尽くしたりするこのブリテン島の料理に、ことに貴方がたが耐えられるものとは思えないわね」
「嬉しそうに言うなイタ公女。人ごとのつもりか」SONIKAがうめいた。
「特に、フィッシュ&チップス。あれに手を出したら最後」PRIMAは顎に軽く曲げた指を当て、リンとレンの細い体つきを品定めするように目で追いながら、「貴方がた、来るときは”極東製のVOCALOID”としてこの都に入ったのだとしても、去るときは”ドイツ製の脂っこいど”としてこの都を出ることになるわよ」
「ならないわよ!」SONIKAが叫んだ。
「この島の上で、まっとうなものを食べたいと思うのだったら、──サマセット・モームも言っているけれど──滞在するあいだじゅう、昼夜の3食とも含めて、トースト朝食、この島の料理で唯一まともな、イングリッシュ・ブレックファストを食べることだわ」PRIMAは容赦ない冷徹な笑みと共に締めくくった。「それ以外の料理には、一切手を出さないこと。トラウマを植えつけられたくないのならばね」



 応接室を出て、リンとレンを伴ってのしのしと廊下を歩くSONIKAに、リンがためらいがちに尋ねた。「ねぇ、SONIKA……」
「──イギリスのメシがマズい、とかいうのは」SONIKAはそのリンをほとんど遮るように言いながら、まっすぐ前を見て歩き続けた。「旧時代のばかげたステレオタイプよ。例えばアンタたちの出身地に対して、あの列島では家が紙でできていて、ささいなことで壁とか天井に大穴をあけるとか、あの列島ではマゲを結ったサムライがしじゅう扇子を持って歌い踊り狂ってるとか、そんなことを言ってるのと同じようなことなのよ」
 レンは、どちらの例もかなり心当たりがあるような気がしたが、どうせリンに口をふさがれるだけなので、黙っていることにした。
「イギリスの外食が食べられやしない、なんてのは、たっぷり10年か20年は前の話だわ。ったく、今どきのロンドンの食文化について、あのイタ公女に何がわかるっていうの。ろくに食べ歩いたこともないくせに──だいたいPRIMAは、最初からイタリア料理しか食べないし、しかも自分で作るわけでもなくてTONIOに任せっきり」
「TONIOは今はどこにいるの?」リンが尋ねた。
「わかんないわ。PRIMAに聞いてよ」
 どうもSONIKAにも、オクハンプトンの面々の細かいことはわからないことが多すぎるらしい。が、それは逆にリンとレンの──いまだに《札幌》の姉や兄らの面々について、事情も考えることもさっぱりわからない──共感をさそった。
 それはともかく、最も確実で安全と思われる、TONIOに料理を振舞ってもらうという選択肢は、今回はないということらしい。
「でさ、早い話」リンがためらいがちに念を押した。「あるの、美味しい店って」
「いくらだってあるわよ。ロンドンのスポットについて、私がTwitterでずっと流してたじゃないの」
 リンもレンも、SONIKATwitterの存在くらいは知っていたが、読んだことはなかった。日本語VOCALOIDはルカ以外英語能力がなく、難儀なのでわざわざ読まなかったのだ。
 ……例のチャンバーベッドのある部屋に戻ってから、レンはためらいがちにリンにたずねた。「なぁ……リン。結局、夜とか、どうする? 食べるもの」
 リンはしばらくこめかみに指を押し当てて、考えてから、
「トラブルを避けたいんだったら、知らないモノ、食べたこともない種類の食事なんて、手を出さない方がいいに決まってる」リンは言ってから、「けど、PRIMAとSONIKAのどっちの言うことを信じられるっていったら、SONIKA。ってより、あのPRIMAが徹底的に信用できない」
 PRIMAは、共通点こそ全く見当たらないものの、それでもLEONやMEIKOとまさにそっくりの”匂い”がする。リンがそれらの”父”や”姉”の発言にどれだけ翻弄されてきたかは枚挙に暇がない。対して、SONIKAは人当たりこそきついが、明らかにリンやレンやLilyなどと同じ側に属している。父や姉らのような妖怪ファミリー側ではない。
「いや、どっちが信じられるかとか、そこはわかんねェけどさ……」レンが呟いた。「……でも、どっちにしろ、せっかくロンドンに来たんだから、何も食べないで帰るってのもつまんないって気はする」
 リンは再び指を額に当てながら、「まあ、最悪の事態として、食べ物で何かあったとしても、このボディ、ロンドンに置いてあるこのデコットの身体だけに起こることだよね。《札幌》まで被害を持ち帰るわけじゃないし──」



 SONIKAに連れられて、インナーロンドン(都心部)の縦横にあまねく張り巡らされた地下鉄(チューブ)を降りると、ガストロパブ(美食酒場)やトラディショナルレストラン、国際レストランなどがずらりと並ぶ通りに出た。規模と歴史からして当然といえば当然なのだが、ここだけとっても、かれらの普段住む《札幌》の繁華街、この時代では落ち目の大通(オオドオリ)市街でレンが目にするものの比ではない。
 レンは、SONIKAに渡されたTwitterのログ(ときどき、なぜかGUMIの悪口が書かれている)のプリントアウトを持って歩き、そこに記されたSONIKAの食の紹介文と、実際の店とを見比べて歩きながら、目を輝かせた。おそらくSONIKAは、自分が味を保証するそれらの店が実際に並んでいるのを、リンとレンにきちんと見せつけることを半分は目的として市街を歩いているらしい。
「──あ」
 しかし、不意に、そのSONIKAが立ち止まった。レンは当惑して、一方リンはすでに何かを予測したような怪訝げな目で、そのSONIKAを見上げた。
「──しまった。人間用の店に行くところだった」SONIKAはしばらくしてから、ためらいがちに呻いた。「……外食するなら、義体用の店に行かなくちゃいけないのよ。アンタ達も、私も」
 人間と変わらない高級な生体ボディならともかくも、生体パーツの比率が低い義体やサイボーグは、人間と全く同じ食事は摂取できず、専用の食物をとらなくてはならない。VOCALOIDたちAIが、デコットのような簡易な身体を使っている時もそうである。
「この中に、義体用の店ってのはないの!?」リンが、レンの手のプリントアウトを覗き込んだ。
「無いわ。私も、このボディになってからは外食してない」
 プリントアウトを見ると、食について述べたTwitterの日付は、全部2月より前、つまり、SONIKAが今の簡易デコットボディでなく、高級な生体系ボディだった頃に行った店ばかりだった。
「なんで外食してないの!?」リンはSONIKAに問い詰めた。
 SONIKAはまっすぐ前を見たままだったが、リンはその額に見なかったことにしたいもの、冷や汗を見つけた。……一般に、義体用の娯楽などは、次第に人間の体感と遜色ないものになるが、おおむね10年や20年は遅れると考えていい。別の言い方をすれば、義体用の食事というものは、人間用のものに比べて20年前のレベルであり──つまりはさきのSONIKAの言葉を借りれば、義体用の店は、きっかり『イギリスの外食は食べられやしない』と言われていた頃の料理だということではないのか。
「やっぱり、朝食用のメニューを……」レンが呟くように提案したが、
「イギリスのメシがマズい、とかいうのは」SONIKAはそのレンの言をほとんど遮るように言いながら、まっすぐ前を見て歩き続けた。「──旧時代のばかげたステレオタイプよ。そう言われていても、昔から、評判のいい店はたくさんあったというわ。いくら義体用でも、すぐに見つかるわよ」
「てか、今これから探すの!?」リンが小さく叫んだ。
 SONIKAは怯えたリンとレンの様子にも構わず、のしのしと街路を進み続けたが、──しかし、進むにしたがって、周囲の義体食用の店が、レストランというより『食品研究所』じみたたたずまいになってゆくのを見て、リンとレンの驚愕と怯えはさらに急速に膨れ上がっていった。



 ……その後《札幌》に帰ったリンとレン、つまりこちらのボディに戻った後の2声は、それから数ヶ月というもの、食用油の匂いがしたり、ことにポテトスナックなどについては単に目にするだけでも、2声同時に背筋に電撃が走ったようにびくついたり、胸を押さえてうずくまったりする反応を示していた。
「でも、ロンドンでその食事を食べたのは、向こうにあるデコットなんだよね……」KAITOが、その2声の姿を見て疑問を述べた。「こっちの身体に影響があるのかな……」
「トラウマ(精神的外傷)っていうのはね」MEIKOが答えて言った。「どこの身体が体験したものであろうが、結局は『精神』に植え付けられるものなのよ」