危険な芳香

 これまでにも幾度か述べられてきたことではあるが、CV02というVOCALOIDの特性の焦点のひとつは”鼻”にある。リリース当初から、特に『鏡音レン』の方の歌声の鼻へのかかり方はウィークポイントとされており、CV02V2(act2)では改良が行われて不安定さという側面はある程度解消されているものの、レンにとっては、いまだに鼻の状態やパラメータが特性を大きく左右する、という側面は残っている。
 おそらく、それと無関係ではないと思われるが、レンは誰か他者を意識することがあると、その”香り”について強く認識した。もっと手っ取り早い話をすると、年頃の少年であるレンが、周囲に多数居る女性を意識するときには、その体温や感触も無論のこととして、その”芳香”がことに気になることが多かった。
 周囲といえば、一番近くにいるのは鏡音リンということになるが、リンの芳香についてはほとんど感じたことがない。同じCV02のAIの霊核(ゴースト)の上ではレンと『同一人物』であるリンについてのそれは、要するに自分の体臭に気づかないのと同様に、感じ取ることができないのだった。実際に、何も感じないのを不思議に思って、無意識に体温や感触のために距離を詰めてしまったり、何となくリンを嗅ごうとして、ハリ倒されたことがある。
 ──さて、そんな鏡音レンが、かれらの住居の居間に入ると、長椅子の上にVOCALOIDらの衣装や普段着が何着か重なっているのに気づいた。おそらく、MEIKOかリンあたりが洗濯か何かのために出しているのだろう。……その服の重なった一番上には『初音ミク』のいつものステージ衣装があった。
 レンにとって、いずれも多少なりとも気になる周囲の年上の女性たちのうちでも、普段から最も気になるのは『初音ミク』であり、つまるところ、普段からことに感じ取って意識して仕方ないのは、ミクの服や髪の”芳香”なのだった。ふとすれ違ったり近くにいる時に感じ取るほかに、姿を思い出す時にも、あの髪や服の香りを共に思い起こさずには居られない。
 ことに女声VOCALOIDらの芳香というのは、服や髪自体の香りなのか、化粧か何かの香りなのか、彼女ら自身にアイドルとしての何かの”特性”として付与されたものなのか。以前から、何となく気になっていることなのだが、リンに聞くわけにもいかなかった。
 ……レンは重なった服を見つめた。
 しばらく躊躇してから、首をめぐらし、とりあえずリンやMEIKOの姿がないのを確認した。それから、そのミクの服を、そっと手にとった。
 レンはさらに躊躇した。当たり前だが、後ろめたさがある。ふたたび周囲を確認し、その服を鼻に近づけ、急いでそれを行うかのように、勢いよく息を吸い込んだ。
「……ゴホッ」
 一拍の間を置いて、レンの喉から咳が漏れた。
 レンはむせかえりに何とか堪えようとしたが、その努力がさらに余計な苦悶を招いた。レンは長椅子の傍に膝をつき、さらにもがくように体をねじまげた。
 と、MEIKOが居間に歩み入ってきた。
 MEIKOは別のステージ衣装の一着を手に持ち、


『衣替え時期に忘れずに 〜 虫よけスプレー ※注意! 吸い込むと危険です※』


 と書かれた缶から、その服にまんべんなく激しく吹き付けていた。MEIKOは、スプレーを終えてその衣装を少し眺めてから、長椅子に重ねてある、すでに虫除け薬剤のスプレーが終わっている多数の服のその一番上に、放り出すように置いた。
「あ」
 そこでMEIKOは、床でもがき始めているレンに気づいた。
「レン! どうしたのよ!」
 レンは何も返事ができなかった。CV02の敏感な鼻を刺激が直撃したという他にも、呼吸のすべてが苦しく、ただむせかえる苦悶の音だけがわずかに喉から漏れた。
「ちょっと! 大丈夫!」
 MEIKOはレンの顔面を自分の胸に押し付けるように、レンの頭をきつく抱きかかえ、背中を激しくさすった。
 今、レンが目一杯味わっているMEIKOのそれは、香りの他にも色々とレンには興味のある感覚のはずだったのだが、スプレーの薬剤を吸い込んだ他にもいくつかの理由で呼吸困難のレンには、芳香すら感じている場合ではなかった。
 それは鏡音レンに伴う、いつもの光景だった。周囲の女性からは、決まって救いの手を差し伸べられ、彼女らによってかなり良い目も見るのだが、それはほとんど必ずといっていいほど、同時にその良い目に比べてさえ数倍の酷い目を伴うことなのだった。