性能をもてあますIII

 そこで起こったことは、仮に鏡音リンの身に起こったのであれば、最初から即座に『最悪のオチを予想できたこと』であり、然るべき災厄を避けられたに違いない。しかし、生憎それは、鏡音レンの身に起こった。
 かれらの住む大きな洋館は当初から大家族を想定していたので、浴場はかなり大きかった。レンは、自分が浸かってまだ数人分の余裕がある浴槽に入ってしばらくして、深い湯気の中におぼろげに、先客がいることに気づいた。
 レンはぎくりとしたが、それが誰の姿なのかに気づいて急速に鼓動が高まった。それは長い髪しか見えないが、巡音ルカのうしろ姿に見えた。
 まだ湯の中に入って数十秒にしかならないのに、レンはすでにのぼせ上がるほど全身が熱くなっていた。一体どうすべきか。恥を忍んで、一声かけてから出るか。だとして、一体何を言えばいい。あるいは、黙って出るか──ルカに一切気づかれずに出られるとすればその益はあるが、ほぼありえない話である。ならば、どうせならば、この入浴中の先客の”さらなる光景”を拝めることをあてにして、しばらくこのままでいるべきか。もしかすると、レンは、それが許される状況というものに居るのか?
 ともあれ、あの感情も表情もあらわさないルカにこの状況で出くわしたときに、一体何がどうなるのか、どんな目にあうのか、レンには一切予想がつかない。とはいえ、家のほかの誰であっても、レンなどに予想がつくわけではないのだが(もっともリンは別にしての話だ。レンは少しいい目を見られて、殴られて終わりである)。
 ──その逡巡で、結局のところ動きようがなかったレンは、まもなく、その”さらなる光景”とやらを、否応でも目にする羽目に陥った。
 ルカのうしろ姿、長い髪の頭が、ゆっくりとレンの方に振り向いた。
 レンの胸は高鳴るどころか、その光景を目の当たりにした瞬間に、逆に停止したかと思えた。
 そのルカは、首から下が無かった。
 というよりも、単にルカの首として認識した場合においても、それはかなり簡略化されたものだった。浴槽の湯にぷかぷかと浮かんで顔を出している(顔しかないが)それは、巡音ルカではないにせよ、何か”ルカのような生き物”であることは確かだった。
 レンは、そのルカのような生き物の脱力するような”なごみ面”と、かなりの間、湯気ごしに顔を見合わせ続けていた。
 と、不意に、浴槽の中で何かに触れ、レンは湯の中を見下ろして、ぎょっとした。その生き物の髪、もとい、触肢が、浴槽の中を一杯に満たし、うごめいていた。レンが反応する間もなく、ルカのような生き物の髪のようなそれらの触肢は、レンの四肢に幾重にもからみついていた。
 レンはもがくようにそこから這い出そうと、振りほどこうとしたが、すでに全身をからめ取られており、浴槽から出るどころか、すでに身動きもままならない状態になっていた。しかし、なんとしても抜け出さなくてはならない。脱出しなくては、大変なことになるような気がしたからだ。なぜなら、とある部分に触手が這い登ってくるのが感じられたからである。予想されるその事態だけは、なんとしても避けなくてはならない。
 しかし、遅きに失した。
 ぬぞぷり。人智を超えた擬音がした。
「アッーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」



「これまでの幾つかの先例で、私の下位(サブ)プログラムのアスペクト(側面;分身)らには、人の体の上を這いずり回る習性があることがわかっていたのですが」巡音ルカが平坦に言った。「そこで、風呂場で自動で体を洗うシステムに応用できないかと、コマンドアレイを組んでみたのですが」
 鏡音リンは、そう言うルカを何かを訴えるような目で見てから、手ぬぐい一本だけ腰にかけて青ざめてぐったりと伸びているレンを、再び見下ろした。
「ルカ、前にも言ったけど」MEIKOが、ルカの目を見つめて言った。「そういうことをするときは、一言、私に相談してからにしてちょうだい」
 そのMEIKOのいつになく真摯な声色に、リンは思わず目を上げかけたのだが、
「──まず、姉妹の中では率先して、私が最初に試さなくちゃならない役割ってものがあるのよ」MEIKOはそう続けた。
「最初に試す役割って、何を!?」リンは叫んだ。「タコに最初に全身洗われる役割がそれだとか言うの!?」
「ん? ……ううん、その話じゃなくて」MEIKOは素っ気無くリンに言ってから、レンに目を落とし、「レンを最初にお風呂で全身洗ってあげる役割のこと」
 リンはしばらく立ち尽くしてから、やがて、頭をかかえてうずくまった。
「駄目だこいつら……早くなんとかしないと」