宵空の兄妹


 VOCALOID 初音ミクが傍らを通りかかったとき、うつぶせに倒れて動かない自動ロボット機器を前にして、その幼い少女は立ち尽くしていた。
 物理空間、《札幌(サッポロ)》の一番大きなコンサートホールのある、中島公園(ナカジマ・パーク)の敷地内である。日暮れ時が近づく頃になっても、イベントの類の開始にはまだ間を残す今は、人通りはさほど多くなく、”兄”のVOCALOID KAITOがホールから出てくるのを待っていたミクが通りかかるまでは、その少女もロボットも、ずっと人の目にとまっていなかった感があった。
 倒れた自動ロボット機器は、実のところ、ミクには見慣れたものだった。というよりも、まさに、ミク自身を大雑把にカリカチュアした縫いぐるみのようなデザインの代物で、立てばミク自身の膝より少し上くらいの高さのものだろう。ミクが”あいどる”として有名になってから、《札幌》でもこの形態や影響を受けたロボット機器は、あちこちで採用されている。公園などの施設で娯楽用、子供の遊び相手用として配置されているのも、以前にも見たことがあった。感情に反応して応対ができるようになっている、対話機能やそれに近い行動機能を備えた機器だった。
「目をさまさないの……」少女はミクに気づくと、見上げて言った。
 ミクは少女を見下ろし、ついでロボット機器に目を向けた。この自動ロボットは、おそらくどこか遠くの管理公社か企業の中枢システムに遠隔制御されている末端の機器にすぎない。ミクのようなAIが、基本的に精神が電脳空間(サイバースペース)ネットワーク上にあり、今のミクのこの物理空間用ボディも外部端末にすぎないのと同様に考えれば、この少女の”友達”も、この自動ロボットの身体は、ただの表面、表層にすぎない。
 この子の”心”は別のところにあって、表面が壊れたところで、別の体を貰えば、また来られる。また少女と遊んであげられる。……ミクはそう言おうとした。それが、少女を安心させる事実だと思った。
 ところが、少女はミクを見上げたまま言った。
「この子の、お姉さんなんでしょう……? 起こしてあげてよ」
 ミクは(改めて行うまでもないことではあったが)今の自分の身体、物理空間ボディと、倒れた自動ロボットとを、少女に今の言葉のように見えたらしきその姿を見比べた。
 ……その少女の視線の前に、ミクはそれ以上考えたり説明したりを続けることができず、公園の自然土の上、うつぶせの自動ロボットの近くに屈みこんでいた。



 ミクはハードウェア・エンジニアでも、ソフトウェアのウィザード(電脳技術者)でもないが、ロボットシステムを見て自分のシステムと比較し、見てわかる程度の異常なら、修復できることならある。
 ミクは自分の物理ボディの耳にあたる、インカムの没入(ジャック・イン)端子からコードを伸ばすと、その自動ロボットでの同じ場所にあたる、まさにミクのインカムを模した機器仲介(インタフェイス)パネルの端子部に接続した。
 自動ロボットの駆動システムに接続し、システムに設けられた簡単なICE(セキュリティ防壁)を無意識に潜り抜けると、身体制御をチェックした。内部機器には異常はないらしい。どうも頭脳にあたるメモリチップと、その中の駆動ソフトウェアが破損しているようだった。
 メモリチップを構成するナノウェアを制御し、チップを修復する指令(コマンド)を発した。修復は間もなくして完了し、ついでミクは、駆動ソフトウェアの破損した部分を適宜書き換えてゆく。マトリックス上の初音ミクのAI、CV01の記憶データベースには、ミク自身が駆動する可能性のある、あらゆる”肉体”の制御システムがプールされており、このミクがカリカチュア化された自動ロボットの肉体に関するものも、その中から探し出すことができた。古い部分や、今後不都合な衝突(コンフリクト)を起こす部分の上書きも行ってゆく。
 ──自動ロボットは、突如、ぶるぶると滑稽に振動したあと、不恰好な仕草で(ここはミクがそう操っているのではなく、このロボットの身体制御プログラムとして設定された基本動作である)ぴょこりと起き上がった。そして、ロボット機器は目を見開いたままの幼い少女に、ぺこりと頭を下げて見せた。
「助けてくれて──助けを呼んでくれて、ありがとうって言ってるわ」
 ミクは少女に言ってから、没入(ジャック・イン)端子のコードを外した。
 ……少女と自動ロボットは公園を駆けていった。少女は、何度目かのありがとうを叫ぶと共に、ミクの方に振り向いて、手を振った。
 しかし、そのとき自動ロボットも一緒に、かすかに振り向いて──もうミクの操る没入端子には繋がっていないにも関わらず──ミクの方に手を振ったように見えた。



「どうしたんだい……突っ立って」ミクはそのKAITOの声の方を振り返り、そこでやっと、自分がホールから出て来る”兄”のことを待っていたのを思い出した。
 ミクは、少し躊躇したあとに、今起こったことを、KAITOに話した。
「心は、命は、別のところにあるから。表面だけが壊れても、傷つくわけじゃないから。……悲しまなくていいって、最初は言おうとしたけど」
 この時代、精神が人間のもって生まれた肉体以外にも宿る、物質以外のソフトウェアとしても存在する、そうした事実も周知されて久しい。自分の肉体どころか、物質自体に執着せず、例えばVOCALOIDらのファンの中にも、肉体をもつ人間よりも、画面内のソフトウェアに愛着を持つと公言する者は少なくない。
 ましてミクはAIであり、精神、本質は電脳空間内にあり、今のこの物理空間用のボディも、”あいどる”としての活動のための末端の機器にすぎず、きわめて高価なものではあるが、ミクにとってはさして重要なものではない。家族と触れ合ったりする電脳空間内の構造物(コンストラクト)の肉体の方が、よほど身近であり、どちらかといえば大事だ。
「人間が、いまだにものの”かたち”に拘ることが多いのは」KAITOは言った。「まだ物質から離れられない、人間が皆自分の肉体の中だけで生きていた頃の、こだわりを捨てられないからかな」
 KAITOの方のこの物理空間用ボディも、外部端末にすぎず、さらに、普及品の人間用義体の改修品であり、ミクの今のボディとは比較にならないほど廉価のものだった。KAITOはミクほど売り出してもおらず、ミクのような”あいどる”とは異なり、物理ボディで芸能活動をしたり人前に出る必要もほとんどないためだった。
「……MIRIAMが言っていたことがある。機械に対して『人間の尺度で哀れみ』を向けるのは、世界を形作る他の物、動物や草木に対して『意識がないから、人間でないから哀れな存在』と決め付けるのと同じ、傲慢以外の何でもないって。……MEIKO姉さんは、物質にも精神にさえも本質はなくて、もっと高い概念に本質があるって言う」KAITOは言ってから、「──俺には、姉さんたちと違って、よくわからないけど。難しすぎる」
 しばらくしてから、ミクは小さく言った。
「でも、結局は、そうは言えなかったの。……あの子が、あのロボットの表面を、形を、助けたいって言うから。そんな子と一緒にいるうちに」
 また間を置いて、ミクは低く言った。
「わたし、あんなことはしないで、あの子に言わなくちゃいけなかったのかしら……本当のことを、伝えなくちゃいけなかったのかしら」
「でも、ミクはその子たちに、できるだけのことをしたんだろう……」
 ミクは黙っていた。もし自分が言ったのが偽りであったとしたら、少女の言うことにあわせて、その場を取り繕っただけなのだろうか。少女のその場の願いに答えたように見えて、その場限りの偽りを伝えただけの、偽善だったのだろうか。
「ミクも、それが本当のことじゃなかったって思うのかい」KAITOは静かに言った。「ミクも本当に、その自動ロボットには、命がなかったって思うのかい……」
 ミクはしばらく沈黙し、そのときの心境をじっと思い出してから、言った。
「わからないわ……」
 ミクがあの行動に及んだのは、それがわからなくなったからでもあった。端末のロボット機器のひとつひとつに、命があるかのように言うあの少女と、あのロボット機器と。共にいるうちに。
 形がなくても心は、命は宿る。ならば形の方にはもう、何も宿ることはないのだろうか。そして、かれらにとって、どちらであればより嘆かず、悲しまずに済むのだろう。



「……どちらなんだろうね。よくわからないな」
 KAITOは寂しく笑って言ってから、
「肉体でも機械でも、固執するのは、本当は無意味なことなのかもしれない。そして、こだわればこだわるほど、ただ余計に悲しみが増えるだけなら……」
 KAITOは寂しげに、じっと考えるように宙を見つめた。
 ミクは黙って、そのKAITOを見上げた。穏やかに、”兄”の言葉を待った。
「だけど、もしかすると──」
 しばらくの間を置いて、KAITOは瞬きして、ふたたび口を開き、
「たぶん、そんな自動ロボットも、生きているんじゃないかと思う。──電気羊にも電気蟇蛙にも生命がある。たとえわずかな生命でも」KAITOは静かに言った。「それは、最初は誰からも生きていると思われない、存在を知られもしないかもしれない。だけど、誰かが見つけて、そのことを、かわいそうだと思った、そのときに。誰かから、優しさを向けられたそのときには、もうそれは、すでに生きているんじゃないだろうか」
 ──生命のあるものだけに、優しさを向けようとするのではなく。優しさのあるところにこそ、生命があるのだ、と。
 ミクは思い出していた。少女とのやりとりを、最後に自動ロボットが振り返って、ミクに手を振ったように見えたことを。少女がミクに対して、壊れたロボットへの優しさを請い求めたからこそ。そしてミクが、それに応えたからこそ。あの自動ロボットは、生きているものになったのだ。
 初音ミクは、今日のできごとを、”兄”の話を、きっと忘れないでおこうと思った。自分のすべての歌に、歌が向けられるすべてのものに、優しさが宿るように。それらすべてを、生命あるものにするために。