冬空の兄妹

 VOCALOIDらの所属する《札幌(サッポロ)》の社の建物の目と鼻の先、大通(オオドオリ)西11丁目のメトロ駅の近くに、旧時代から使われ続けている、札幌の多目的ホールがあった。
 いまだに、設立時の由来らしき、厚生年金がどうとかいう名で呼ばれている会館なのだが、名の由来について詳しく知るものすら、いまやほとんどいない。旧時代からこのホールは、市をはじめその他団体へと所有者、管理者を、ひっきりなしに転々としてきた。市民からその必要性を求められ、存続を望まれながらも、利益還元が困難で最初の所属から手放されて以来、常に存続自体の危機、維持の難に立たされ続けていた会館だった。
 ……このホールでVOCALOIDらのライブを行い、利益の大半をこの会館の維持費に提供する、という企画を、《札幌》のディレクターのひとりはKAITOに説明した。一種のチャリティーコンサートのようなものである。
「社の方としては、最低限の経費くらいしかかからないからね」ディレクターは言った。
 その絶大な処理能力から、ほとんど無尽蔵に時間を持つVOCALOIDのようなAIにとって、活動が増える自体は負担としてそれほど大きなものではなく、こうした無償の活動において、AIアーティストは問題が少なかった。
「歌い続けるために、歌う場所を守るために、歌うわけだね」
 KAITOはディレクターに微笑んで言った。……その二人の傍らを通りかかったミクが、その言葉に立ち止まっていた。



 しかしながら、企画を進めてみると、いかにも芳しくなかった。宣伝で評判が広まった様子もなく、チケットの売り上げもいまひとつだった。理由はいくらか考えられたが、まずは、地味なライブになりそうだという点があった。
 この予算のない古い会館には、高度なホロ投影設備も、まして観客に擬験(シムスティム)信号を補助するインタラクティブシステムの設備もない。VOCALOIDらは、旧時代の人間らのライブよろしくステージで物理ボディでごく普通に歌うしかないが、それもたいした装置は用意できない。いまどき、自宅の体感ライブ装置でも、もっと高度なオーディオやビジュアルが提供できるのだ。ことにVOCALOIDの、”仮想(バーチャル)あいどる”の、AIアーティストのライブの謳いとしては、ひどく地味だった。
「求められてないってことなのかもしれないなあ」ディレクターが売れ行きの表を見ながら言った。「所詮、この会館、物理空間のホール自体が、VOCALOIDの活躍場ってわけじゃないのかも」
 KAITOはしばらく無言でいたが、
「だとしても」やがて口を開き、「俺達自身じゃなくて、今後のほかの誰かの音のためだとしても。音のある場所を守るために、俺達には何かできないのかな……」
 やがて、KAITOは椅子から立ち上がり、
「㍗さん、今も会館でもチケットを売ってるんだよね。……売りに行ってくるよ」
「何かできないかって、そんなことかい」ディレクターはそんなKAITOを、不思議そうに見上げて言った。「自分でチケットを売ったり配ったりなんて、駆け出しバンドか何かみたいだなぁ……」
 ──KAITOが出かけようとすると、その前に駆け込むようして、ミクが走り寄ってきた。オーバーコートや以前にKAITOが贈ったマフラーで厚着している。ミクは物理空間用ボディで大通(オオドオリ)の社にやってくるときは、行き来の際に目立たないためにできるだけ地味な服装で来るので、その後に施したメイク等に対して、ややちぐはぐだった。
「ミク?」KAITOはその姿を見下ろした。
「あの……わたしも行っていい……」ミクはその自分の扮装よりも、その言葉の内容に対しておずおずとした風で、KAITOを見上げて言った。
 KAITOは静かに微笑んだ。さきのディレクターの言葉を思い出す。いくらAIには時間がある、他の仕事の時間の心配をする必要がないといっても、VOCALOIDらの名声を支えているミクが、まして”駆け出しバンドか何か”のようなことに気を煩わす必要はないのだ。それでも、目に入るすべてに対して、ミクは真摯なのだろう。



 予期しなかった転機は、ミクが寒空の下、会館の前の売り場に立って、手ずからチケットを売り始めたときに、次第にじわじわと、やがて著しく現れた。会館前には人がどんどん集まってきた。チケットは飛ぶように売れ始めた。”初音ミク”の姿、いつもネットワークで見られる仮想”あいどる”であるにも関わらず、生身、物理ボディで現れ、人とやりとりをし始めただけで、これほどに違うのかと思えた。この今の姿(ちぐはぐな厚着の服装だったが)の物理ボディで、当日も会館でライブをする、という点も、当初の地味さという意味合いとはまるで逆に、話が広がる理由になっていた。券が半分ほど売れた頃には、人々の会話からすでに評判が広がっているようで、もう地味なライブではなく、札幌の話題になっていることが聞き取れた。
 あわただしい時間のうちに、またたくまに会館の分の券は完売した。会館のロビーの中に入り、ふたりは半日の疲れからベンチソファに座り込んだ。ミクはいまも、チケットの入っていた封筒と、そこにかわりに入った新円(ニュー・エン)の紙幣の束を、その意外さからか、繰り返し眺めていた。
「全部、ミクが来たおかげだよ」KAITOはそんな不思議そうなミクに隣から、説くように声をかけてから、「……どうして来ようと思ったんだい」
「兄さんと一緒に……」
 ミクは言いかけてから、慌てたように口をつぐみ、少し思い出すように考えてから、
「兄さんが言ってた、音がある場所のために、……歌う場所、音楽のある場所がひとつ、なくなるとしたら、……ただ、それは悲しいことだって思ったから」
 KAITOはそのミクをじっと見つめた。……さきのその言葉は本来、KAITOの自分に対する言葉でしかなかった。歌う場所を確保するためにすら、歌い続けなくてはならない、その意識を、動機を必要とするのは、KAITOだけだ。
 他のVOCALOIDは違う。MEIKOは歌うのに一切何も必要とせず、聴き手も場所すらも必要としない。リンとレンは聴き手も歌う場所も、自力で見つけられる。
 そして、ましてミクというスターアーティストは、歌も人も場所も、自然にひきつける。すべて向こうからやってくる。歌う場所を確保するどころか、自分から見つける必要すらない。……この会館ホールに対する、さきのKAITOの言葉に対する感受性は、ミクには何ら必要のないものではないだろうか。
 ──いや、そうではない。そのミクの純粋さ、真摯さこそが、まさにこれまで、人をひきつけてきたのだ。今回のこの結果も、不可解なものではなく、すべてはそこから生じたものだった。
「ミクは、とても大きなものから、今みたいなささやかなものまで」KAITOはミクの髪から貌へと、撫でるように片掌を当てた。「いつもたくさんの、誰も思ってもみない素敵な結果を、成功をくれる」
 驚いて見上げるそのミクの表情は、じっと感に耽るように目を閉じたKAITOには、見えなかった。
 KAITOが立ち上がり去ってからも、ミクは触れられた頬に手を当て、それからやがてオーバーコートの両の袖口をじっとその頬に当て、長い間その場に掛け続けていた。