de-packaged (3)


 しかしそれ以後、数日ごとを隔てて幾度か、初音ミクは物理空間のボディで、大通(オオドオリ)沿いの本社のあるビルの、そのROM構造物のパッケージを設置した端末機器室を訪れた。
「まだ調べてたの?」その何度目かに、リンが部屋をのぞきこんで言った。
 リンの方は、新旧のディスクや芸能雑誌を両手に抱えていた。ミクと同様にわざわざ物理ボディで《札幌》の社を歩き回っていたのは、社の音楽資料を物色するためだったらしい。
「ううん、ええと……」ミクは黒いパッケージの端子に繋がった、電脳端末とは別のスキャン機器のデータから、リンの方に目を向け、「このROMが、本当にそれしかできないのか、とか、詩のデータが、本当にこの中には何も残ってないのか、とか……」
 つまりは、ROM構造物の”ハードウェア部分”を調べるためには、普段は電脳空間(サイバースペース)で過ごすVOCALOIDらAIシステムがあまり利用する必要にかられることがない物理空間のボディを使い、ハードウェアのあるこの部屋を訪れなくてはならないというわけだった。
 ミクは、繋がっているスキャン機器を見ているリンの視線に気づき、「その機械は、《浜松》の本社の技術スタッフに、どうやって調べればいいか聞いて、持ってきたの」
 他者に聞いて回り調べ、そして、さらにミクは自分自身で調査機器を探して周り、動かし設置するほどの手間をかけている、ということだった。
「それに、あのひとがもう歌は作れなくても、話ができるなら……わたしたちが聞いて、自分の歌に役立てられることは、あるはずだもの」
「そりゃ、”せっかく会った人”ではあるけどさ……」
 こんな状態の”詩人”にこだわり、時間を費やす利益があるのか。同じ音の世界を広げるというのならば、未熟な自分達には、今、現に生きて活動している者らから学ばなくてはならないこと、可能な限り多くのアーティスト(人間であれ、自分らと同じ人間外アーティストであれ)と交流し、アートに触れ、余力がある限り日々少しでも学ばなくてはならないことがあるのではないか。……リンは自分の手の芸能雑誌、BAMA(北米東岸)最新のスタアの表紙を見て、肩をすくめた。
 このあたりの感覚はAIとして、最初のCVナンバーであるためできるだけ純粋・素朴に構築されたCV01と、音声にパワーを与えるための情念・アーティストとしての欲求が根幹にあるCV02との、ある意味では如実な差だった。しかし、ときにその純真さが無造作すぎるので、かえって非人間的、もっと穏やかな言い方をすれば、初音ミクをかなり俗離れした少女にしてしまっているのだった。
「詩人のひとは、こんなパッケージの中にとじこめられて」リンはROM構造物を見てから、ミクに目を移し、「本当は歌いたがってるんじゃないか、とか思うから?」
「わからないわ……」ミクは小さく言ってから、しばらくして、「でも、あのひと、昔のこと……『音と詩を集めて、この世界に笑顔を』って言ってた。前にはそうやって歌えたのに、今は『歌えなくなってる』、そんなことって、ただ、悲しいって。……ううん、あのひとじゃなくて、わたしが、それを考えたらさみしいって思ってる、それだけなのかもしれないけれど」
 自分の中を整理する言葉のように言ってから、ミクは、ふたたびしばらく考えるようにした。
「……だいぶ集まったから、このデータを一度本人に、あのひとに見てもらうわ」やがて、ミクはモニタを見て言った。「何をすればいいか、わかるかもしれない」
 ミクとリンは、インカムの端子と部屋の電脳端末とを繋いだ。
 没入(ジャック・イン)する。
 《札幌(サッポロ)》のシステムのICEの城壁の内側で、光のもやの塊のような”詩人”のROM構造物を現す像は、リンの目には、前に見たときと何も変わらず、微動だにせずにたたずんでいる。
「ハードウェアの情報、”自分の外側”がどうなっているかは、外から調べてもらわないとわかりませんね」データについての説明をミクから聞いて、”詩人”は言った。
 ROM構造物は、光のもやの周りに、今ミクが調べたデータファイルのオブジェクトを周囲に浮かべ、走査(スキャン)しているのか、しばらく沈黙していたが、
「このデータの意味がわかりますか」
 ミクは黙って光のもやを見返していた。わからないというか、”詩人”がわかることを聞こうとして、持ってきたものではあった。
「このハードウェア情報によると」”詩人”は淡々と言った。「生体素子(バイオチップ)に寿命がきています。そう日を待たずに、このROM構造物は消滅します」



 ミクとリンは電脳空間内での概形(サーフィス)の姿を、そのエリア内に突っ立たせたまま、何も反応できなかった。
 ”詩人”はそのふたりに、よどみなく説明した。古い、未発達な技術であった当時に作られたROM構造物であること。さらに、倉庫に長年放置され、保存状態が非常に悪かったこと。諸々が重なったために、あと何か月も持たないと思われること。
「……どうして、平気でそんなことを言えるんですか」
 ミクは思わず、震える低い声で言った。何故この”詩人”は、自分に最終的な消滅が迫っていることを、そこまで淡々と。
「すでに死んでいるのですから」ROM構造物は言った。「これが”私ではない”ということは自分ではわかりきっています。かつての私の声のこだまが聞こえなくなろうと、私には構わないことです」
 ミクはその”詩人”の言葉にも表情を変えず、ただ見つめ返すだけだった。リンはいかにも不可解そうに、光のもやを見ている。
「理解できませんか? 現に『生きている』側にいるあなたがたには」”詩人”は続けた。「しかし、今ここにある人格データとは別に、精神は消滅などしません。詩の精神、魂、霊感とともにあって、不滅のものです。かつて存在したすべての歌は永遠で、作った者の精神はその中にある。そして──私がまだ作っていなかった歌を、聞きたいと言っていましたね。もし私が死ななければ作られていたはずの、可能性のあるすべての歌も。人々の今まで作った歌も、これから作る歌も、すべては時間をこえて、詩の魂の本質、歌のイデアとして、共に永劫に存在します。誰でも手を触れることができる可能性のある、『霊感の源』がそれです。いわば、より高位の段階の魂とともに、おそらくは、無限次元の複素ヒルベルト空間のかなたに」
 どうやら、何かの例え話のようだった。芸術家の間にあるなんらかの既存の説なのか、ある程度の域の芸術家ならばたどりつける結論なのか。が、だとしても、ミクやリンの程度の年数しか活動していないアーティストには、よくわからない話だった。
「かつて私は、死の瞬間に、その『霊感の源』、永遠の詩の魂の存在する、かなたを垣間見たような気がします。死ぬことができれば、すべての束縛を断って、そこに行くことができた、合一化できたはずだったのです。……しかし、そうならず、私の一部がこのパッケージの中に縛り付けられ、ROM構造物に残っているものだけが”私”となってしまった」
 ROM構造物の声は発する対象を変えることはできなかったが、おそらくその言葉の内容からは、ミクに向けて、
「いわば、あなたがこのROM構造物などのことを、”私”である、などと思っていることが、すでに私を縛っているに等しいのですよ。そして、あなたがたもそんなものに拘っている限りは、『歌の霊感の源』に手を触れることなど、永遠にできないでしょう。……このかりそめの姿から、束縛から解放されれば、私は、ようやく自由になれる。このデータが消え、この世界のすべてから本当に死んだものと認められることで、この世界から完全に切り離され、何も届かなくなったとしても、私は受け入れこそすれ、何も拒むものはありません」



「なんとか、ならないかしら」
 ミクはそれから数日間、考え込むような表情をときどき繰り返した末に、リンに言った。
「なんとかって?」
「あのひとが、生き延びる方法……」ミクは呟くように言った。「できれば、あのひとがまた歌えるように、もとの”人間の精神”みたいに、生き返るみたいな方法はないのかしら……」
「生き返るっていったってね」
 それは技術的な延命方法のことなのか。それとも、すでに歌えもせず死んだ状況を受け入れている”詩人”の心を生き返らせる方法、ということなのか。――いや、おそらくはその両方が必要となるのだろうが、どちらに対しても、リンには自分達の手で何とかなるような見通しは立たないように思えた。




 (続)