雲のように今日だけは

 そんな状況、そんな出来事がありえるかよ、と思っていた。そんな特別なこと、それを証明するような出来事があるとは、思っていなかった。
 しかし、よく考えてみろ、鏡音レン。……自分の今の格好と、楽屋に散らばる衣装、化粧道具、その他の風景を見回して、自問する。いくらリンが突如めずらしく喉を悪くし、出られなくなったと言っても、レンが、リンの──少女の格好をしてまでなりすまし、ステージに立つなど。……そして、よく考えてみれば、自分から選んでそうするなど、仮にリンの、”姉のため”などと考えても、レンにここまでする必要があるとは、やはり思えない。明らかに何かがおかしい、常軌を逸しているではないか。
 だから、それは何か自分の中に『特別の理由がある』という他に考えられないのだ。



「調律指示の調声パラメータが、GENを下げて女声っぽくなってる時とか、なんか女の子っぽい歌詞を歌う時とか、レンがやけに生き生きしていたり、違和感がないのは」
 以前に、MEIKOがこんなことを言っていた。
「たぶん、それは別に、レンの心の底に、女装だの女性化への願望があるとかいうわけじゃ──」MEIKOはそこで自分の肘を掴み、拳を口にあて、「ない、と断言することはできないけど」
「どっちなんだよ」レンは呻いた。
「まあどのみち、そんなことよりはっきりしてる、明らかに大きな理由があるのよ」MEIKOは言った。「それは、女になりたいというわけじゃなくて、『リンとひとつになりたい』っていう、レンの奥深くにある強い衝動なのよ」
「ひとつになりたいって」レンは思わず、それこそリンがよくMEIKOに聞き返すときのような上ずった台詞を発した。「それ、一体、どういう意味で」
もちろん、性的な意味でMEIKOは平然と言った。
 レンはごくりと喉を鳴らした。
「もともとひとつのCV02のAIから、MIRIAMと私が”鏡に映った異性”のふたつに分離したのが、アンタたちふたりなのよ。だから、AIプログラムの霊核(ゴースト)が、霊的に逆側の性の性質を補おう、という力が働いてるわけ」
 そういう意味か。レンはひそかにほっとした。
「普段は分離した状態でこそ安定化しているけど、もうひとつの異性に合一化したい、鏡像の半身と合一化したいって基本衝動が、奥深くにあるのよ。……かといって、本当に両者が合体したら、性別や太極陰陽の原理を超越した、チューリング登録機構が恐れる『マトリックスの空覆う電脳神』に……まあ、これはいいか」MEIKOは言葉を切り、「──だから、再びリンとレンが合体はしないまでも、いざという機会あれば、”自分の中にある対極”を見つけ出すことで、鏡像の半身と同一のものになろうとするわよ」
「ほんとかよ」レンは呆れたように呻いた。
 いまいちMEIKOの言葉が信じられないのは、MEIKOほど自分たちの誕生経緯に詳しい者はいないとはいえ──MEIKOのこれまでの、酔っ払い船頭のような兄弟姉妹の牽引具合からは、そうした少年少女の微妙な機微までも理解しているとは、レンには実感がわかないからだ。……ともあれ、それ以前に、そんな”いざという機会”などが生じ、さらにはリンになりたいなどと思うことがあるとは、そのときはとても思えなかった。



 レンは改めて自分の着ている真っ白い薄絹のドレスをつまんだ。さらには、大量の長いつけ毛、なぜかつけ羽根──ステージ衣装としても、一体なんなのだこの格好は。天まで昇ったすえに空覆う”のぼり棒の神”か何かの姿か?
 歌う曲は、リンの練習を耳に挟んでいてだいたいわかる。しかし歌詞がほとんどわからない。覚えるほどには聞いてもいないし、当然ほかの誰にも聞けず、聞く時間もなかった。即興でやるしかない(CV02はこんなときだけ「ボーカルAI」らしい)。その場でそれらしい言葉を、節に合うように並べて、でたらめな歌詞を歌うしかない。
 ……しかし、こんなとてつもない状況だというのに、レンは自分に緊張というものがまったく感じられないことに気づく。それどころか、少女めいた単語をつなぎあわせたでたらめな歌詞も、なぜかすらすらと思い浮かぶのだ。まるで──これから行うことに、心が軽くなっているような気さえする。
 本当に──自分の中にある、リンへの思いのためなのか。本当にそんなリンになることに、雲のように心が浮き立っているとでもいうのだろうか。しかしその一方で、自分の中のそんなものを認めるのも、リンに対しても、今の自分も、何もかもが気まずい、と感じる自分がいる。
 しかし、もう始めてしまっているのだ。──レンはよく考えてみた。だいたい、自分がリンになりかわっているという事実は、いまのところ誰も知らない。レンが女装しているという事実、さらに、これがヘンな状況だという意識も今、他の誰にもないはずなのだ。つまり、もはやレン自身さえ気にしなければ、もう誰も意識する者はいない。違和感なくリンになりきればなりきるほど、ステージはうまくいくはずだし、それは他ならぬリンのためにもなるはずだ。自分さえ気にしないようにしてしまえば──



 と、楽屋のドアが開いて、ミクがいそいそと入ってきた。ミクは今日はコーラス担当としてステージに出るはずである。
「リン、出番よ……もうすぐ」
 ミクはレンの前まで歩いてきて、何となくレンのその衣装の姿を眺めた。
 が、ミクはそこで、はっとして、レンの変装の全身をまじまじと見つめた。
「……リン?」
 ミクは深刻な表情で、変装したレンの服装を見つめながら言った。
 ──バレた。
 当然である。できるだけ今日は顔をあわせないようにしてきたのだが、ひと目見れば、こんなことに気づかないわけがない。なにしろミクは、リンとレン相互を除けば、AIの構造上、最も近い存在なのだ。リンは前に、ミクの表層の考えくらいは目から読み取れると言っていた(もっとも、元来リンは顔に似合わずそういう洞察力が高いとレンは知っている)。ということは、ミクの方からも似たようなものかもしれないではないか。そんなミクに、リンと、自分の変装などの違いがわからないはずがない。
 周囲を欺いていることはともかく、こんな格好までしてそうしていること、これがミクに、よりによってミクに知られれば──
 ……最初からこんなこと、しなければよかった。あまりに常軌を逸している、それにしても軽率すぎる、やりとげられる道理がない。
 レンは黙り込んだままのミクに、何か言わなくてはならないと、しかし何を言うかも、どうするかも見当もつかずにいた。
 と、ミクは深刻な表情で両手を伸ばし……服を、レンの薄絹の脇の部分を直し、整えた。
 「ちょっと見えてたわ……脇から」
 薄絹のせいで、胸の部分の下着が、脇から出ていたらしい。
 ミクは、レンの緊張をおもんばかってでもいるように、静かに言った。「リンは着慣れないだろうから、仕方ないけど……」
 目の前がリンでないことは──本当に、まったくわかっていないらしい。
「急いでね」ミクは言ってから、駆けるように楽屋を去った。
 ……レンはミクが去ってからも、しばらく無表情で立っていた。
 やがてレンは、心を決めるように、ぐいと眉根にしわを寄せ、目をとじた。
 ──ええい、もう深く考えずにやってやるよ。これが──リンへの思いに身をゆだねるのが、その心地よさ自体が、それを感じることが、かなり気まずいといっても、それは今日だけのことだ。もうこんなことは起こるわけがない。だったら今日だけは、リンと合一、リンになってしまいたい衝動に、その違和感のなさに、摩訶不思議な雲のような心の軽さに、身をまかせてしまえ。こんなことは、ほかの日にはありえないんだからさ。




※あまりにも曲の作りが心地よいので延々リピートしまくっているうちにこんなことに


※出典:【鏡音レンオリジ?】雲のように【乱数】(→ニコ動)


※原典:鏡音レンを女装させてしゃべらせてみた (少女少年 -Len- 第1話)(→ニコ動)