ジーエフカッコカリ

 にこちゃねる


 つかみの一話を何に費やすか? という命題に対して、5%をお使いイベントに、残り95%をキャラを出して一言しゃべらせる、に費やすという回答を選択した一作。観終わっても2人しか名前は覚えられませんでした。というか考えてみたらその2人はMMDになっているので観る前に覚えていた。
 作画のクオリティを云々する声もありますが、例えば他メディア原作映像化というものが本格化した当初の90年代であれば、こういう脚本を通すような姿勢で作られたアニメというのは、たとえOVAであっても、ひいては劇場公開アニメであってすら、作画の方は脚本以上に大崩壊必至でした。キャラが動いて喋っているというレストレーション(クレリック7レベル呪文)効果よりも、酷いものを見せられたことによるエナジードレイン(前記の逆転呪文)効果の方が上回るというものが珍しくなかった。そんな当時の記憶を基準にする視聴者が当ブログ以外にいったいどれだけいるかはわかりませんが、本作の作画は、可愛いけどなんか見ていて不安になるようなバランスという評もある原作絵を綺麗に落とし込み再現しているように見えます。しかし現代(10年代)の作画レベルを基準とすれば、最近の子はこの程度ではレストレーション効果までは受けないだろうという評も頷けるものではあります……。


 ともあれ、ネットによって創造物があふれかえった現在、内容は悪くない(良くできる)のに、人気も話題性もないために生き残れない、という素材(原作)が世にはひしめいています。それに対して、本作は原作に人気も話題性もあるにも関わらず、おそらく諸事情でこのようにあたふたと決行するしかなかったというコンテンツなのでしょうが、折角の話題作をこのように浪費するのは『勿体ない』、という感情が個人レベルでは呼び起されます。しかし、市場レベルから言えば、人気も話題性もあるからこそ「タイミングを逃す」ことにより回収できるはずのものが回収できない方がよほど『勿体ない』わけです。個人は全体を維持するための血液としてしか使われないという原理が粗製濫造時代よりもだいぶ恵まれた現在になってむしろ浮き上がるという不思議