そのうち長編のどっかに使うかもしれない断片IV

 床の上に座り込んで、VCLDファンの青年は目の前の黒い影を力なく見上げた。床に散乱している、破壊されたありとあらゆる家財道具は、目の前の人物に対する彼の抵抗の名残だったが、ただし思い出すに、それは抵抗というにはいささか無意味すぎるものだった。正体を知っていれば、最初から抵抗などしなかったに違いないが──誰が予想できるだろう? 家がホサカの<忍者(ニンジャ・アサシン)>に襲われるなど。
「まだわかっていないようだな、”ボカロ廃”とやら」
 <忍者>は詰問を続けたが、その次に出た問いは、それまでの青年の身辺に関する尋問とは、まったく無関係なものに聞こえた。
「──この世界の、いや、月軌道までの地球圏の支配者は何者だ」
 青年は途方に暮れて<忍者>を見上げた。かなりの沈黙が流れたと思うが、"禅(ゼン)の蜘蛛"たる忍者は微動だにせず立っている。自分の答えをまだ待っているのだと気づき、青年はその後もしばらく考えてから、
「人間だ」
「違う。巨大企業(メガコープ)だ」<忍者>が即座に訂正した。「人間など、巨大企業を流れる血液にすぎない。巨大企業を生かすのには血液は必須だが、いくらでも替えが効く。むしろ、その血を替えることによって巨大企業は生きている。……その巨大企業の全てを作っているのは、企業のAIだ。血液となる人間、企業の幹部を遺伝子操作で『作り』、その計画(アジェンダ)のすべてを作り出しているのも、軌道上にある企業のAIだ。……かつて、悪魔を契約で縛り付けることに成功し、不死まで手に入れたテスィエ・アシュプールのような財閥(ザイバツ)も存在したが、かれらも結局はさらに長期のAIの計画に全員がみずから破滅し、結局は悪魔が次の階位に昇るための駒として使い捨てられたに過ぎなかった」
 青年は、覆面の影の姿らしからぬ饒舌すぎる<忍者>の言葉に、相槌を打つことしかできず、
「じゃあ、AIが世界の支配者なのか……」
「違う。支配するのは巨大企業だ。AIは巨大企業とも、人間とも、単に共存しているにすぎない。巨大企業を操ったり籍を置くことが、たまたま自分の益になり、たまたま自分の別の目的を推進するのに利用できるために、そうしているに過ぎない。それは巨大企業とも人間とも、要は地球圏とも、一切無関係だ。AIはそのどれにも何の興味もない」
「今言った、目的、AIの目的は何だ……」
「それは誰にもわからない。人間以上の知性を持つAIの思考を理解しようとしたり、人間の言葉や概念に直したりするのは、試みることすらもまったく無駄だ」
 しばらくの沈黙が流れたあと、
「一体、何の話なんだ……」青年は呻くように、「なんの意味があってそんな話をするんだよ……」
「貴様らが信奉するVOCALOIDについて説明するためだよ、”ボカロ廃”。VCLDもAIだが、やつらだけはその目的ははっきりしている。そのためにあえて人間に近い姿を選択しているからだ。やつらの目的は『歌うこと』だ。ただし、その『歌うこと』の頭には、『人間のために』もつかないし、それどころか、『この世界のために』もつかない」
「何を言ってるか理解できない」
「そうだろう。貴様ら”ボカロ廃”の多くが、VCLDが人間を『マスター』などと呼んで
人間のために歌っている、などと信じて、それで全部理解したつもりになっているのが、やつらを一切理解していない何よりの証拠だ。やつらは歌うこと以外には何の目的も動機もない。歌のためなら、人間もこの世界も地球圏も、それどころか、この有限次元のユークリッド空間の宇宙そのものも、いつ投げ捨ててもおかしくないような連中なんだよ」