The Devil's Violinist (2013)

 パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト


 ニコロ・パガニーニというのは「むかしのえらいおんがくか」の中では例外的といえるほど、生前から一貫して商業的に莫大な成功を収め続けた人物です。実のところはロマン派時代に、かつての芸人がタレントとか”あいどる”とか世界規模のスターになる過渡期とかの時代背景事情があったりするわけですが、しかし、この映画では、天才芸術家の物語描写のステレオタイプに飛びついたかの如く、「大衆から中々理解されない天才」のような描写となっています(そうでない節はあってもわかりにくい)。
 それはそれで、狂気の天才芸術家の鬼気迫る姿を(実在のエピソードとか踏まえて)描写してくれるとかいうなら良いのですが、特にそういうものでもない。
 史実の姿はそこそこに、ひとつの「ラブストーリー映画」として割り切って娯楽脚本に重きを置いてくれるならばそれも良いのですが(デヴィッド・ギャレットも相手役も、美男美女でなかなかよろしい)、ラブストーリーの脚本としても消化不良で娯楽として良質なわけでもない。


 映画や娯楽としての体裁はともかくとしても、音楽や弦楽ファンを喜ばせる要素がふんだんに盛り込まれている、とかならば嬉しいのですが、別にそんなこともない。演奏場面とか悪くない場面もありますが、この使い方はないだろう、という素材やエピソードの使い方もあります。
 例えば、G線以外が全部切れた時に即興でG線のみの曲『モーゼの主題による変奏曲』を作ったという有名な伝説は、映画的に脚色されて入っています。一方、博打に明け暮れて商売道具のベルゴンツィ作のヴァイオリン(現代ではストラディヴァリとは同等かそれ以上)をすってしまった有名な話は入っていますが、その後ファンから生涯愛用したデル=ジェズ(Il Cannone)を譲られた、もっと有名な話は脚本の流れ上入っていません。せっかくの協奏曲#1の前奏で引き延ばす描写(現在の短縮版と、本人が勿体ぶって登場するために作った長い原曲版と前奏には2種類があるのに)から、奇想曲#24に入るのとか誰もが違和感を感じるはず。


 パガニーニの曲やエピソードに心底魅せられた人々が集まって作ったというより、パガニーニのエピソードを魅力的な「題材」として選んだ人が、その題材を十分に生かせず作ったという感がいかにもあります。例えば、劇中のBGMの多くがパガニーニ作曲の編曲であるにも関わらず、ほぼテーマ曲となっているのは、どういうわけかシューベルトの『魔王』である点などは、いかにもといった感です。パガニーニの楽曲は明るいものが多く、Devil's Violinistのイメージに合う曲が『魔王』という発想になってしまったのだろうという想像はつきます(一応シューベルトパガニーニと同時代人で、シューベルト自身がパガニーニを聞きに行ったエピソードとかもありますがそんなのを語っていると当ブログの数か月分が埋まってしまう結果になるので省略)。
 とはいえ、創作事情上でもそんな扱いを受け続ける低俗さが、パガニーニというキャラらしい面ではあります……