死合凄艶秘録

 デビューからもうかなりの年数が経つが、大規模な収録やステージやPVにのぞめば、特にその曲を最初にステージ等で歌う時や、最初にイベントを行う場所では、ある程度の緊張を覚えざるを得ない。
 鏡音レンが、収録を前にして集まった《札幌》と《大阪》のVCLDらのうち、神威がくぽにそれを相談したのは、特に深い意味があってのことではない。心の修養なるものについて、この侍なら少しは考えたことが(身に着けているとか、頼りになるとかいう意味ではなく)あるのではないか、と思ったのだ。
「どれほどの場数を踏んでいようとも、戦場(いくさば)や果し合いに臨むにあたって、凪の如く全き心の平穏を保てる者は、滅多に居るものではない。……其は、いかなる道であっても、ある境地まで究めた者のみが至れる境地であろう」
 がくぽは(その点は期待通りに)真剣にレンの言葉に耳を傾けてから言った。
「己が力が及ばず、打ち克てないのではないのか。逆に、耳目が曇り、手足が強張り、力を出し切れず、打ち克てるはずのものを逃してしまうのではないか。……その惑いからかたときも逃れられるものではない。然るに、その惑いを抱くことさえなくば、我は常に自在であろう、融通無碍であろう、と覚えることしきりだ」
「――その対策については、興味深い逸話があります」
 その平坦な声色にレンとがくぽが振り向くと、書物を片手にした巡音ルカが立っていた。
「今、がくぽが例として挙げたような死地に臨む者の話です」ルカは無表情に言った。「とある時代物語で、敵地に潜入しようとする忍びの話です」
 レンはルカを見上げた。がくぽが知っている以上の何かがそこから得られるのだろうか。
「男女ひと組の密偵が、主人公ら武術の達人がひしめく陣屋に潜入する、ここ一番の重要で危険な任務のために、林野に身をひそめて夜を待ちます」ルカは無表情で言った。「そして暗くなると、夜が更けるのを待ちながら、その男女はいきなりアオ○ンを始めます」
 レンとがくぽはその場で優に2フィートは飛び上がった。
「あの……それは……」やがて、レンだけが声を発した。「何かの忍術なの?」
「いえ。忍びとしての任務の内容とはまったく関係のない、正真正銘、ただの男女のア○カンです」
「それってさあ」うしろからMEIKOが近づいてきて言った。「戦後すぐの色物忍法ものの小説にありがちな、単なる無理やり編集部に入れさせられたエログロ要素なんじゃないの」
「商業的な事情ではそうかもしれません。しかしそれは、書かれた事情としても一面にすぎません。私達読者までその一面だけで解釈する必要はありません」ルカは無表情で言った。「あくまで作内には、それらの行為によって、もやもやした感情の処理、吐き出しをすることができた、と記されています」
「要はひたすらヤっちゃって緊張を紛らわせたってことね」MEIKOがけだるげに言った。
 あまりにも直接的な表現に、レンがびくつくようにMEIKOを見上げた。
「だが、わからぬ」がくぽが生真面目に言った。「古来より武芸者は、その、欲望は無暗に放つことのないよう心がけてきた。試合に臨む際は女犯を避けるよう。欲が溜まりきった際に、技の冴えに繋がるのは経験で知られている」
「ええ。かつての武芸者だけでなく、現代の武道家やスポーツマンであっても、性欲は肉体能力に昇華することができる、という側面もまた事実です」
 ルカは無表情で言った。
「つまり、まとめるとこうなります。男声VCLDは、重大な決戦の場に及んで、自分の能力が明らかに不足しているとき、力が足りないかもしれない、という懸念が生じている場合であれば、ムラムラとひたすらにため込んでおく、というのがひとつの対策です。――そして逆に、自分の能力が充分であっても、その心境のために実力どころではないとき。本来の実力を発揮できないという懸念があるときは。その心のもやを振り払うために、誰かに対して一気にドプッと大放出してしまえばいいのです」
 沈黙が流れた。
「ちょっと待った」それまでレンのすぐ背後で黙って聞いていた鏡音リンが、低い声でルカに言葉をかけた。
「はい」
「ライブだとか収録の直前に、ムラムラと溜めてるにせよ、放出する相手を探してるにせよ、大事なイベントの直前に周りにいる女声VCLDがそんな目で見られっぱなしになるって問題についてはどうなんだヨ」
「私は一向に構いません」ルカはがくぽを見て言った。
「アンタのことじゃないヨ! てか、アンタが企んでる策略の話をしてるんじゃないんだヨ!!」