貴方との喜びが得られなければ

 その日、神威がくぽ巡音ルカは、スタジオの収録室の中にふたりきりで、収録機器の電脳端末の前に並んで、淡々と時間を過ごしていた。スタジオに長時間こもり、互いに様々な発声を行って音声を収録し、そのデータを収集し、分析を行う。かれらボーカル・アンドロイドでなければとても疲労なしには不可能な、複雑かつ退屈な作業を、延々と繰り返していた。
 VOCALOIDらは、人間の歌手らが行う意味での発声の”練習”は必要としないが、よく似たことはより頻繁に行っている。かれらが所属する《札幌》や《大阪》の開発企業は、改良や新バージョンの開発を常に継続している。そのための膨大なデータ収集を、VOCALOIDらは全員、仕事での歌とは別に、常日頃から行っていた。
 神威がくぽは、自分の分の音声を収録し、データをよりわけて処理している間、あまりに無心に打ち込んでいたので、そのときルカに声をかけられて、ようやく我に返った。
「がくぽ」ルカは、端末に伸ばしていた手を不意に止めて、がくぽに向き直って言っていた。「こんな言い方をするのも、何なのですが」
 ルカのその無表情も冷徹な声色も、一見すると普段と変わらないものにも見えたのだが、わざわざがくぽに向き直り、改まったような言葉を発するのは、ルカの行動としては、いつもと違うように思えた。
「意外でした。……がくぽが、この収録の作業について、ここまで上手くやれるとは思っていませんでした」
 がくぽは、自分にとっても意外ななりゆきに、内心の動揺を抑えた。
 ――両者にとって意外というのはつまるところ、前回までの神威がくぽは、この手の共同作業のたびに、絶え間なくルカの冷酷な指摘や叱咤を浴びていたからに他ならない。冷徹で理詰めのルカがそうする相手は、別にがくぽに限らない。しかしがくぽは、特に自分に対しては、ルカが毎回ことに不機嫌になるように感じていた。それは、おそらく『武人VOCALOID』である自分が、無骨で繊細さに欠け、気配りにも欠け、さらに電脳の知識にも仕事の融通にも欠けるためだろうと思っていた。
 だが無論のこと、それはがくぽにとって本意ではない。共同で何かをするたび、ルカをいつも落胆させる、喜ばせることができない、それはがくぽにとっても辛いことだった。何故それほど辛いのかは、がくぽ自身にもはっきりわからない。叱咤されて武人としての自尊心が萎縮し落胆することや、一方でルカに余計な手間をかけて悪いと思う部分も確かにあるが、それだけではないように思える。
 ともあれ、何とかしようと一念発起した神威がくぽは、今回は、まるで果し合いにでも向かうかのように、この前の日までに、事前にありとあらゆる手を尽くし、万全の状態で臨んだのだった。……いざスタジオに入ってからは自分でもそれに必死で気づかなかったが、どうやらそれが少なからず、効を奏していたようだった。
「がくぽの声のポテンシャルや、音声の処理能力そのものは、元から低くはないものと思ってはいたのですが」ルカの声は平坦だったが、その言葉にはどこかためらい、戸惑いを含んだような、歯切れの悪いところがあった。「今行っているような作業、こうしたデータ分析──実務的な対処や分析が必要な局面に関しては――いわゆる融通を利かせるのは、がくぽは上手くないものとばかり思っていました」
 この日行っていたのは、両者の音声データの収集で、それも、2声の相性を調べるためのものだった。多くの組み合わせを試行しなければならず、データ収集の中でも、最も複雑で時間がかかるものの一例だった。
「……我は何も、たいしたことはしておらぬ」がくぽは、内心の動揺を抑えて笑みながら言った。「この作業で行ったことのほとんどは、ルカの手によるものであろう?」
「だとしても、がくぽの行った分も、そう簡単にできるものではありません」ルカは目を伏せ、静かに言った。「正直に言いますが、――少なからず、見直しました」
 がくぽは、その次には、見てわかるほど深い安堵の息をつき、相好を崩して言った。
「なに、まこと、そうたいしたものではないのだ……」
 ルカの前で失敗するまい、昨日までの準備の成果を出そうと一心不乱であったがくぽは、そのルカの言葉に、一気に緊張が解けていた。安心しきったがくぽは、先日までに行っていたそれらの対策について、すっかりルカに話してしまおうとしていた。



 がくぽは、自分の耳の(第二世代VOCALOIDの標準装備の)電脳インカムの挿入口(スロット)に手を伸ばすと、そこから小板状の微細(マイクロ)ソフトのメモリ素子を抜き取り、ルカに見せた。
「ここに入っているのは、他の皆がこれまで行った2声の相性の試験の折の記録でな。皆の経験から、あらゆる注意事項や対処法をまとめた一巻だ。言うなれば、2声相性試験の、虎の巻とでも言えようか。これは実は昨日までに、リンやMIZKIが我のために作ってくれたものなのだ」
 ルカは無表情で、語るがくぽと、その手の上の微細ソフトを見つめた。
「うむ。ここしばらく、幾日かの間をかけて、皆で集まったのだ。皆も経験のある、厄介な2声相性の試験、しかもルカとの試験ならば易しくはなかろう、とのことで、同じ《大阪》のGUMIとLilyだけでなく、《札幌》からリンと、《神田》からMIZKIまでも来てくれてな。リンなどは、実にひどいのだ。我の欠点、その場の音声収録や処理で『どんな問題を起こすに違いないか』さえも、ことごとく言い当てるのだ。これがまさしく無体な言葉ばかりでな……だが、いかなることをすればよいか、リンは対策をこと細かに、実に的確に立てるのだ」
 ルカは無表情で、軽い口調でよどみなく喋るがくぽを見つめていた。
「それほどまでにしてくれるのは、よほど我が頼りないためもあろうが……今日ルカとうまくいったのは何もかも、昨日までに皆がまとめてくれた虎の巻の一巻と、皆が親身に教えてくれたことのおかげ、というわけなのだ」
「リンとMIZKIが親切だったのですか。それは良かったですね」
 ルカの声がかなり冷たくなっていたのだが、がくぽはこの時点では気づかなかった。そもそも、ルカの表情も声色も表面的には無表情なので、よほど気をつけなければ態度の変化を読みづらく、ましてこのときの浮かれているようながくぽに感じ取れたはずがない。
「うむ。特にリンとMIZKIは、難しい『他社開発同士』の声を合わせる練習もしてくれたのだ」がくぽは宙を見て、微笑んで言った。「リンなどは一見するとひどく荒っぽいようだが、実は皆が、我には親切であることはわかっている」
「――彼女ら皆がそんなにがくぽに優しかったのなら、彼女らと収録をしていれば良いではないですか」
 突如、ルカは立ち上がった。それは、その声と同じように静かな、よどみない仕草のようで、いつもの平静な振る舞いと、やはり何ら変わらないものに見えた。しかし、椅子が床を動いた音と、立ち上がった時のがたりという音は、防音内装のはずの収録室中に驚くほどに大きく響き渡った。そのままルカの背中は、収録室から消えた。
 がくぽは黙り込んだ。そのまま、端末の前の椅子に静かに掛け続けていた。
「……何だ?」やがて、がくぽは愕然とした様子で宙を見つめたまま、うめくように言った。「何と……何を、怒らせてしまったのだ……?」



 やがて、がくぽはその場に掛けたまま、耳の電脳インカムに手を当てた。
 インカムを通じて鏡音リンとの通話回線がつながると、まず、リンの何かの恐ろしい怒声が聞こえた。どうやら、直前まで鏡音レンか誰かを怒鳴りつけていたらしい。
《がくぽ? 何々。いや必ず何かあるって予想はしてたけど》そしてリンは、平然とがくぽの通話に応えた。自分自身がどんなに面倒を抱えていても、こちらの事情を難なく読み取り、気を使ってくるのがリンという少女だ。《何か、収録で失敗したの?》
「いや、収録の失敗はなかったとは思うのであるが……」
 がくぽは、今しがた自分が行ったこと、そしてそれに対するルカの反応をリンに説明した。自分では今の何が悪かったか何も考察できないので、ほとんど会話のやりとりの通りをそのまま表現して述べた。
《何やってんだヨよりによってそんなせっかくふたりでいい雰囲気になったとこで別の女どもと楽しくやったとかの話するかッ!》インカムの向こうでリンの怒声が聞こえ、それはさきのレンに対する罵倒の口調に酷似していた。《追っかけなよ! すぐに!》
「追いかけ……追いかけて……その後、如何にすればよいのだ……!」
《わからん! いいからすぐ追っかけて謝る、とにかく1秒でも早く!》リンが早口で叫んだ。《てかなんでその状況でこっちに掛けてくんだヨ! 今こうやってルカ以外の女と通話してること自体やばすぎるんだってばッ》
 そこで突如、リンの通話はぶちっと切れた。
 がくぽは、それからもしばらく愕然と端末前の椅子に掛けていた。動転しすぎていて考えがまとまらない。が、どのみち今できることは、リンが急かしたそのひとつしかない。がくぽは収録室を飛び出した。



 がくぽは廊下に出るなり、ルカの姿をあたふたと探した。既に遠くへ行っていたらどうしたものかと思ったのだが、幸い、すぐにこのスタジオの建物のロビーに、ひとりたたずんでいるルカの姿が見つかった。安心する間もなく、がくぽは駆け寄った。
「ルカ……その……聞いてくれ!」
「聞かなくてはならないことは有りません」ルカは無表情で言った。
 がくぽはうろたえた。さきのデータ収録の間の、ルカの前で鮮やかにうまくいった時とはひどい落差であり、それががくぽをさらに慌てさせた。さらに、当たり前だが、昨日までまとめた微細ソフトの中にも、『こんなときにどうするか』の対策など入ってはいない。そして、リンの助言も得られないのだった。
 ──どうすればいい。だが、外に何も頼りにできるものが無ければ、がくぽには、正直に自分の言葉で自分の思うことを発するしかない。それ以外にできることがない。
「その……昨日まで準備したのは……察してくれ」がくぽは歯切れ悪く言った。「今日ルカに叱られ、手を煩わせるようなこと……それは、避けたいと思ったからだ」
「私のため、とでも言うのですか」ルカは平坦に言った。「なのに、私といる時でなく、他の方々について話すときの方が、貴方は楽しそうではありませんか」
 がくぽは、呆然と立ち尽くした。
「結局のところ、私によっては、がくぽは楽しさを得られないということです」
 ルカはわずかに目を伏せて言った。やはり平坦な表情と声色だが、がくぽにはそれが、寂しげに見えた気がした。がくぽには、不意に胸にこみあげてくるものがあった。
「それは……我のせいだ」がくぽはたどたどしく、だが訴えかけるように言った。「我は、ルカを煩わせてばかり、不機嫌にしてばかりだ。だから、ルカと共に喜ぶことができないのだ」
 がくぽは吐露するように言った後、しばらく躊躇してから、
「他の、誰と共に居ることに楽しもうが……ルカを喜ばせることができなければ、何の意味もないではないか……」
 がくぽの声は沈んでゆき、
「故に、このたびこそは……きっと、ルカを喜ばせることができようと思うたのに……我が、やはり及ばぬばかりに」
 そのがくぽの言葉に、ルカは、目を伏せたまま黙り込んでいた。
 沈黙が流れた。
 ──やがて、ルカが振り返るように見上げて、口を開いた。
「貴方の何が、及ばないというのですか。……何も、あの微細ソフトや他人の助けをかりなくとも、今日の貴方は良いところまで、できていたではないですか」
「いや……」がくぽは意外な言葉に戸惑った。
「私には、そのままのがくぽで充分です」
 ルカの口調はやはり平坦だったが、心なしか穏やかになっているように思えた。その感触が消えないうちに自分を急きたてるように、がくぽは言っていた。
「……我の力が及ぶというのなら。ルカに教わるのに、不十分でないのなら」がくぽは真摯な目で、ルカを見下ろし、「次からは、すべてルカに聞こう。……これからは、ルカが何でも教えてくれるか」
 ルカはしばらくそのがくぽを見上げていたが、
「その方が、手間が省けるというのに。なぜ最初からそうしないのですか」
 ルカは言い捨てるようにして、がくぽにくるりと背を向けた。そのまま、そのルカの姿は、元の収録室の方へと戻っていった。
 がくぽはそのルカの背中が見えなくなった後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 やがて、がくぽはうめくように呟いた。
「これで……良かったのか……?」
 何をして、何がどうなったのか、自分でもよくわからない。不安にかられ、やがて、電脳インカムに手を伸ばし、鏡音リンに回線を繋いだ。
《だからこっちに掛けてくんな》着信直後にリンの叫び声が聞こえ、ぶちりと切れた。
 がくぽはさらに呆然として立ち尽くした。──が、やがて、意を決したように、ルカを追い早足で、収録室へ向かっていった。以前の収録の頃の元通りの、ルカの叱咤を受けるために向かうようなものだが、果たして、先ほど怒らせたルカは厳しくなっているか、それとも今度は少しは優しくなっているか、いまだにがくぽには想像はできないままだった。