ハートガクポル 第2話(後)


 収録が始まり、いざそのスタジオの中に対峙しても、長い間、神威がくぽは『美振(ミブリ)』、巡音ルカは例の禍々しい形状の長剣を、無造作に片手に提げて、ただ向かい合っているだけに見えた。かれらの衣装も、いつもと変わらないものである。これは、今回収録した映像を後で外装だけを編集したり、ひいては今回記録したモーションのファイルだけを流用するためで、この動きの収録の段階でそうそう細かいセッティングをする必要がない。そのためもあって、そうして黙って向かい合っている両者の姿の中には、何も特別なこと、アクションが起こるきっかけは無いように見えた。
「これはもしかして、やっぱりアレだろうか……!? この組み合わせはお互いはじめてだと、何をやっていいかわからないんだろうか?!」ディレクターは、リンとGUMIの隣で収録風景を眺めつつ、その表情に焦りをにじませて言った。「ううむ、やっぱり具体的な動きとか提案とか過去のアクションシーンの例だけでも少しは用意しておくべきだったということだろうか!」
 この《札幌》ディレクターの喧しさにまだ慣れているとはいえない《大阪》所属のGUMIが、戸惑いの視線を送ろうとしたとき、──まるで水が流れ始めるように、その光景に変化が起こった。両者が同時に踏み出した動きの起こりが見えず、あまりによどみないので、まるで波頭が交錯したように見えた。
「うお!?」ディレクターが、思わず漏れたにしては大きすぎる叫び声を発した。
 揮われるたびに色彩がまばゆく移ろう『美振(ミブリ)』と、禍々しく捻じ曲がった長剣が交錯し、刃が互いに素通りすればがくぽとルカの姿はすれ違い、刃が受け流し絡めば身を入れ替え、刃が受け止めかみ合えば身体がぶつかりあうように、その体躯はこめられた力に躍動した。さらに激しく交錯する両者の太刀行きの速さに、大気が空を切るだけでも甲高い金属音のような太刀風の響きがスタジオじゅうに響き渡り、受け流せば摩擦で電光が刃を縦断し、正面から受け止め衝突すれば横断する火花の散華が視界をくらませた。
 両者の動きはすべてがアドリブのようで、しかも、がくぽとルカが両者とも習熟しているはずの、実在の武道などの動きはもちろんのこと、これも日本の古典芸能に由来する殺陣(たて)の動きやセオリーからも、完全にかけ離れている。見るからに、人体の躍動(ボーカルアンドロイドなので、それも擬似的なものに過ぎないが)の見栄えを最大限にアピールするだけを優先し、それ以外の現実性、合理性などは、なにひとつ考慮していない。これらの動きのみも、あとで切り取って編集して使うので、順番などには脈絡はない。
「やはり思っていた通りだ!」ディレクターがメガホンで手を叩きまくりながら言った。
「何をどう思ってた通りって」GUMIは、最初のディレクターの言葉と辻褄が合わないその言葉に口を挟んだ。
「活発な少年少女でも良いが、大人の男女同士のアクションシーン、それも全身を使ったものの迫力は、やはり段違いだということだよ! 今まで他のVOCALOIDではできなかったことだ! いいよいいよ最高だよ!」
 がくぽもルカも、疲労を最低限にするような動きというのはたやすく可能なはずだが、身体にかかる激しい負荷を見ている者に感じさせるように動いた。応じて息遣いが聞こえるようであり、それは激しく官能的な連想を呼ぶ、肉体のぶつかりあい、絡み合いにも見えた。
 動きが緩から急、急から緩へと転じるそのたびに、両者の長い裾がはためき、その体の線と、しなやかで力強い体躯の動きが見え隠れした。その光景には、否応にも見ている者の目をひきつけてゆく力があった。
 リンはその光景を見つめながら、頬をぬぐうような仕草を繰り返していた。
「どしたの」GUMIがリンを振り返った。
「何が」リンは視線をそらさず、いらいらとGUMIに返すだけだった。
「いや、……どうしたのかって」GUMIはリンのその横顔を見つめた。リンの様子の不自然さは、隣から、それも特に観察していなくてもわかるものであったらしい。「いやリン、さっきから、全然しゃべらないし」
 確かにいつもなら、あれらのディレクターの喧しい言葉に合いの手を(GUMIよりも先に)入れているのはリンの方である。
「別に何もないからしゃべんないの。どうもこうもしてないってば」リンは、なぜか上気している頬を覆うように意味もなく擦り続けたが、凝視する視線は、収録の光景を見つめたままだった。
 どうもこうもしてない、はずだ。あの肉体の官能的に躍動する光景の次に、何が起こるかはわからないが、たいがいの何が起こったところで、VOCALOIDの身辺、リンの身の回りには、いつものことである。しかし、ならばなぜこんなに気になるのかは、リン自身にもわからなかった。
 大人同士の姿として演者同士が絡み合う収録風景、それががくぽであっても、さらにその相手がルカであっても、これまでに見慣れてきたことだ。そして、たとえルカが、がくぽとリンについて探りを入れたり、自分の方はがくぽとどうなると予想していたり、何やら計画していたとしても、である。リンが、それの何を気にする必要がある? がくぽとルカに、あの熱い息遣いが聞こえるような両者の激しい動きのその先に、何があろうと、リンが気にするような理由はない……
 ──互いに斬り合ったそのままの動きで急激に接近したがくぽとルカは、刃と体躯が絡みあうように密着寸前まで隣接し、体を入れ替えて互いに退いた。そこから流れるように続いたルカの動きは、片足しか踏み込まず、大きく身を翻し、右手一本で長大な剣を軽々と、真向に叩き込んだ。ほんのわずかにがくぽよりリーチの短いルカは、右半身から強烈な片手斬りを放ったのだった。
 そのルカの大きなモーション、見切りそこないようのない動きに、外すかかわす地味で現実的な動きをとることなく、がくぽは一気に踏み込みつつ、そのルカの長剣を正面から切落(きりおとし)にかけて斜め下に跳ね飛ばした。その踏み出すままの流れのひどく大仰な動作で身を沈め、瞬間、刃を返し、逆知勝(ぎゃくちしょう)にかけて斬り上げた。いわゆる一心一刀に担ぎ上げるように斬り上げたのは、VOCALOIDリスナーなどにもよく知られている”つばめ返し”の動きらしく見えるような、あからさまな単なるパフォーマンスである。
 ルカはほんの軽足に見えるフットワークで床を蹴ったが、その体躯はがくぽの斬り上げる太刀行きにまるで沿うかのように高々と舞い上がった。跳躍の頂点でルカの身と刃がふわりと翻った。
支点を板に吊るしてドリカムのドタキャンフラーーーーーッシュ!!
 ルカが空中で何かの掛け声の絶叫を発したが、ルカの外国語ライブラリの発音だったので、リンやGUMIら日本語VOCALOIDにはこのような”空耳”としてしか聞こえなかった。
 その場に両足を踏みしめた体勢をとどめたがくぽの、頭上に掲げたその刀に、全身の体重ごと落ちかかってきたルカの剣が激突した。両の刃の散らした火花が、がくぽの腕から体を伝ったように見え、それが足に達すると爆音と共に衝撃を発して、両の足元とその周囲の床が一気に陥没した。
 次の瞬間、轟音と共にそれ以外の周囲の床が張り裂けた。スタジオの床のほとんどすべてが崩壊して飛び散りながら階下になだれ落ち、がくぽとルカの両者はもつれあったまま落下して、それらの崩落と共に視界から消えた。
「これだ! これが求めていたものだよアクションに続くカタストロフ描写!」ディレクターは叫んでからリンを見下ろし、「ちなみにドリカムは、リンちゃんたちと同じ《帯広(オビヒロ)》出身のアーティストだね!」
「いやどう見たって求めていたとか以前に、セットがぶっ壊れてるんだけど!?」GUMIが、がくぽとルカの落下だけで崩壊して構造物が露出した床の跡を見つめて言った。「なんて安普請なスタジオだ……」
 しかし、リンの脳裏には、自分自身がさきに両者に対して言った言葉──言葉のがくぽがルカの上になり下になりという姿、虚構の武芸の演技の世界で今にもぶつかりあいそうだった両者がその外の自身同士の世界で密着し、もつれあいからみあう姿がよぎった。
 次の瞬間、リンは椅子を蹴るようにしてスタジオの部屋を飛び出し、階下へとおりる階段に駆け込んでいた。
「ちょっと、リン、何!?」GUMIの叫び声が聞こえた。
「おおい、リンちゃん!」ディレクターの声が続いた。
 ──スタジオの階下にある部屋に飛び込むと、瓦礫のうず高く積みあがった床だけを、リンはひたすら目で探した。その床の上に予想している光景を、恐れつつも、探さずにはいられなかった。しかし、あまりに破壊の激しい光景には、上から落ちてきたものの位置さえ見当がつかない。リンは無言で床に目を走らせ続けた。
 しかし、砂埃が晴れると共に見つかったのは、ルカひとりがそこに立っている姿だけだった。予想に反して、着衣や髪の乱れすらもなく平然と、悠然とその場に立っている。
「無事だったんだ……」リンはまず、それだけを言った。「がくぽは……?」
「途中までは、さきにリンの言った通りでした」ルカはさきほどまでの猛アクションシーンと続く事故にも、息すら乱していない声で言った。「がくぽは、落ちてゆく途中までは、自分が下になって、ぶつかる障害物から私を守りながら落ちていました」
「がくぽは、どこに落ちたの?」リンはまた床を探そうとした。
「どこにも落ちていません」ルカは平坦に言った。「いまだに」
 ルカは、言ってから天井の一箇所を指差した。リンは、今までまったく注意を払っていなかった天井を、そこではじめて見て、……しばらくの間、無表情でそこを見つめていた。
 天井近くの障害物のひとつ、床が破れて露出した鉄筋の飛び出した箇所に、神威がくぽがぶら下がっていた。羽織の襟首に鉄筋が引っかかり、首が絞まるような状態で、がくぽの長躯全体が、宙空にだらりと垂れ下がっていた。
 リンはそれをしばらく見つめてから、ふたたびルカに目を戻した。
「リンの言うことは、半分は合っていましたが」ルカはわずかに天井の方に目を上げ、平静な口調のまま、ひとりごとのように言った。「何故、がくぽはこう何もかも、中途半端に空回りするのでしょう……」
 そのルカの平坦な言葉はしかし、リンには、事故から守るというがくぽの行動のことと、さらに、その先にあることの、二重のことを指しているように思えた。
「リン! 何があっ……って、ええええ!?」
 続いて階下に駆け込んできたGUMIが、天井近くに吊り下がっているがくぽを見上げて叫んだ。降りてくるなり床しか見ていなかったリン以外の者にとっては、それはすぐに目に入ってくる珍妙な光景だった。
「いや、別に、──毎回起こってるのと変わんないような厄介事」リンは両手を首の後ろに当てて組み、呆れたような口調で体を伸ばしながら、それらの光景に背を向けた。「つまり、たいしたことは起こってないってこと」
 GUMIはぎょっとしたように、そのリンを見た。ついさっきまでのリンと比べて、突然、いつも通りの平然とした様子に戻ったことに、気づいてのことかもしれなかった。
 しかし、──リンは、たった今の自分の台詞が、先のルカのそれと同様に、二重の意味を持っていることに、不意に気づいたが、──おそらく、GUMIにはそこまでは気づかれてはいないだろう。