トレードマークストラテジー

「何これ……」鏡音リンが、端末のモニタに映ったそのリストを見つめて呟いた。
「何」鏡音レンは、《秋葉原(アキバ・シティ)》の物理空間のその事務室で、電脳端末でネットを検索しながらリンと一緒にだべっていたのだが、そのリンの声に同じモニタを覗き込んだ。
「これ、『商標』の出願ってやつだよね」リンが、官庁提供の情報の表示されたそのモニタの表面を指差し、「いや、有名ブランドとか見てたんだけど。そしたら、この最近の出願のところに、うちらの曲の名前がずらっと」
 そのリストには、リンやレンらをはじめVOCALOIDらの、そろそろヒットしはじめている曲、すなわち、いつもの活動場所である動画サイトで”殿堂入り”と呼ばれる、ある程度の再生数を稼いでいる曲や、その直前あたりの曲名が並んでいる。さらには、同様に流行りはじめたPVやMAD動画の題名すらも、おびただしい数が並んでいた。
「これを、なんか知らない名前の会社が出願してる」
「出願されると、どうなんの」レンは、素朴な疑問を口にした。「──てかさ、その『商標』って、どんなの」
 リンは思い出すように額に手を当ててから、
「『商標登録』って……この名前がこの会社の商標として官庁に登録されたら、この会社以外には、この用語がブランドとして、商品の名前とか広告に出したりして使えなくなる、とかいうのだったと思う」
「このリストが、その、登録になったら」レンが目を見張ってモニタを見つめた。「ボクらが、自分達のこの曲の名前を使えなくなるってこと?」



「多田さん!」リンが首を回して、叫んだ。
 《秋葉原》の事務室の女性マネージャーが、リンらのモニタの傍らにやってきた。
「これ、知ってる?」リンがモニタを指差してマネージャーに言った。
 マネージャーはしばらくモニタを見つめた。
「キミリス・システムズ」マネージャーは、その商標登録出願をしている社名を読み上げ、「知らない会社ね。VOCALOID関係の取引先、ライセンス先、どれでもない」
 マネージャーは自分の前の操作卓(コンソール)を操作しながら、並行して事務室の備え付けのホサカ・ファクトリイ製ミニコンピュータに、音声指令機構(ボイスコマンダ)を介して呼びかけた。
「開始(オン)。”キミリス・システムズ有限責任会社(ラオス)”の所有関係を」
「”ラインフリー・サイエンティフィック株式会社(AG)(ベオグラード)”の完全所有です」ホサカ製コンピュータの対話システムの合成音声が答えた。
「もう一度。”ラインフリー・サイエンティフィック株式会社(AG)(ベオグラード)”の株式所有数が多い順、あるいは3代まで遡って同じ所有元になる株式の合計数が多い順にその所有元を」
 リンとレンは、マネージャーとホサカが、世界各地に転々とする会社名を延々と辿ってゆくその地味な作業を繰り返してゆくのを、当惑したように見つめていた。……が、キミリス・システムズから11代遡った社名をホサカが読み上げたところで、リンとレンは驚愕した。それは、かれらのよく知る社名──とある広告代理の巨大企業(メガコープ)との関連を、かなり強くほのめかす名だった。極東の情報流通を掌握し、さらに、VOCALOIDらを快く思っていないことが、すでに幾つかの例から判明している巨大企業である。
「切(オフ)」おそらく、じかにその巨大企業の名になるにはもう何代か遡らなくてはならなかったろうが、マネージャーはそこでホサカに命じて中断した。「実のところ、8番目あたりからは”かれら”の関連として、この界隈ではよく知られている社名ね」
 マネージャーはリンとレンを振り返り、
「……整理すると。その件の巨大企業(メガコープ)が、わかりにくいように海外に作ってある子会社にやらせて商標出願しているわ。”殿堂入り”するくらいではあるけど、まだ商業には関わってないような曲の名前を大量に、財力に任せて。指定商品や役務──そのブランドを使える商業の分野だけど、音楽関係はもちろん、関係のあるものないもの、あらゆる指定商品、役務が出願されているわ。もしこれが登録されたら──他の者、つまりVOCALOID関連や、曲や動画を作ったプロデューサーも、この曲の名前を商品や広告で使おうとした場合、その”子会社”の商標権の侵害になる。VOCALOID側は一切、この曲名は使えなくなると言っていいわ」
「そんな!」リンが叫んだ。
 言わずもがなだが、これだけの数の”殿堂入り曲”についてそんなことになれば、VOCALOID活動の減退は免れない。発信の出口がなくなるだけでなく、動画作者の創作意欲も削ぐことになる。
「多田さん……それって、誰でも出願できるの? 曲と関係ない赤の他人でも」レンがマネージャーに尋ねた。
「ええ。この出願自体を制限する規定はないわね。元々、”これから使う予定のトレードマーク”についても出願できるように、自分で使っていない名前も誰でも出願できるような制度になっているの。……だけど、その制度を利用して、こういうことをやる大企業もいるのよ」



 マネージャーはしばらく間を置いてから、
「ただし、そのブランドが、すでに世間で有名になっているなら──周知や著名なら、登録段階で拒絶されるようにはなっている。だから、普通なら誰かに深い関係のある有名な用語を、そうそう簡単に赤の他人が登録できないようにはなっているわ」
「それじゃ、コレは登録されない?」リンはほっとして言った。「うちらの曲として、もう有名だから……」
「”殿堂入り”だからね……」レンがモニタのリストを見て言った。
「ネット上で有名になっていれば、世間で周知だと思う?」
 マネージャーは言ってから、またしばらくして、
「仮に、周知と認められるほどだったとしても。──思い出してちょうだい。あの”最初の4か月”に、かれらが『初音ミク』に対して何をやったかを」
 リンとレンはその言葉に衝撃を受けたように、唖然としてマネージャーを振り返った。
「あのとき『初音ミク』は、明らかに何者かの工作で、ネットワークの検索に表示されないように、ウェブの辞典にも情報が補充されないようになった。あれが最終的に成功したわけではないし、かれらの仕業だと確定しているわけではないけれど。でも少なくとも確実なのは、かれらには、やろうと思えばそれらが可能だということ」
 マネージャーは別の端末の、デフォルト表示の検索の画面に目を移し、
「かれらが、この曲の名前について、検索に表示されないように裏から手を回せば。”ネット検索でたったこれだけしか出てこないものが、世間で周知や著名といえるはずがない”という主張を、官庁に提出することも可能ね。そうなれば、かれらの商標として登録される他にないわ」
「そんな──ただの、力ずくじゃないか」レンが言った。
「いえ、それがかれらの当たり前の手段だわ。……ここまでの情報操作はともかくとして、他人の大切なブランドを、企業力にまかせて大量に出願して妨害するなんてことは、いくつもの大企業が今までもやってきたこと」
 マネージャーは言葉を切り、
「小企業には、訴えられても訴訟を長期間継続する力もない。登録だけされて使われていない商標は取消を請求することもできるけど、これだけ膨大な数を出願されたものに請求するのは、とても小企業の財力や労力ではできない。膨大な出願にも維持にも費用がかかるけれど、巨大企業なら苦にもならない。そして、小企業や個人にはそれに対処する力もないのよ」
 リンとレンは呆然としたままだった。



 マネージャーはしばらくモニタを見つめたあと、その二者を振り向いた。
「あなた達には、できること──やっておくべきことがあるわ」
 リンとレンはマネージャーを見た。
「あなた達や、これらの曲の知名度を証明する”人”の声を集めること。殿堂入り動画のひとつひとつに、何万から何十万回再生させて、派生の創作を生み出す人の力がある。そして、あなた達VOCALOIDには、今までのどんな企業よりも、直接に人の声を集め活動を促す手段もある。巨大企業(メガコープ)は、検索サイトや辞書を操作することはできても、大量の”人の声そのもの”をすべて封殺することはできないわ」
 マネージャーは、モニタに並んだ曲名を見つめながら、指を組み、
「これまで、他の企業であれアーティスト個人であれ、巨大企業(メガコープ)の力に抗えるものは、何ひとつとしてなかった。けれど、あなた達はこれまでに情報世界に存在したどんな法人とも個人とも違う。かれらがあなた達を、VOCALOIDだけを”恐れる”のも、実はそのため。──そんなかれらの肥大した過剰防衛本能に、そのまま飲み込まれるか。生き延びるために、あなたたちを支える”人”たちの、まさしく総力を借りるか。行く末は、そのふたつにひとつね」