アイルロフォビア

 台所のテーブルで、各々のけだるい時間潰しに午後を浪費していたリンとレンの傍らに、ルカが顔を出して言った。
「──居間の、KAITO兄さんとミクの様子についてなんですが」
「あー、兄さんとおねぇちゃんのことだったら、ちょっとやそっとのことなら驚いちゃ駄目だよ」リンは、自分の耳の電脳インカムに接続した、手の中の音声レコーダのスイッチを操作しつつ、ルカの方に目も上げずに答えた。
 一方、レンは、『PPP』とロゴが入った擬験(シムスティム)体感娯楽ユニットのゲーム機を持った両肘をテーブルについたままだったが、その二人の名前が出たとき、わずかに顔を上げたようだった。
「リンに尋ねたいのですが」ルカは相変わらずの無表情で、低い声で続けた。「そのかれらが、猫耳猫尻尾全身着ぐるみ猫スーツをまとってちゃぶ台でふたり丸まっている、というのは、『ちょっとやそっとのこと』の範疇に属しますか」
 がたり。リンのレコーダーとレンのゲームユニットがいちどきに手から落ちた。
 ……リンとレンとルカの三者は、まるで遠巻きにでもするように、廊下を挟んで居間の反対側のドア越しに、居間の中の方を覗き込んだ。すっぽりと頭までかぶった猫耳つきのフードの、白地にそれぞれ三毛と縞の、猫の着ぐるみの後姿二つだけが見える。わずかに見える髪と、その体格から、確かにKAITOとミクであろうことがわかる。居間の低テーブルの前に、おそらく膝を丸めて寄り添うように座り、並んでテレビを観ているようだった。動作はそれこそ家猫のように、時々わずかに緩慢に身じろぎするだけである。
「……なんなのアレ」まず、リンが呻いた。
「猫スーツ、特に白系で猫耳つきの全身のものは」ルカが、そのリンの形式上の疑問形に律儀に応じた。「”あにめ”絵におけるものは、FIN@L F@NT@SYシリーズの白魔ないし導師の装束をきっかけに大きく波及しているものが多いという説が」
「いやそんなことを質問したわけじゃないってか質問自体してないんだけど」リンは小声で低く遮った。一方、ゲームユニットを握ったまま、ルカの今の話に興味ありげに見上げていたレンは、ふたたび居間の二者の背中に目を戻し、なにやら奇妙なものを見る感覚と、二者への複雑な心境とを入り混ぜた凝視を送った。
「……てか、なんで猫なの」リンが再び呻いた。「おねぇちゃんがごたまぜのネットで貰ってきた、何か変なウィルスとかの影響でも受けてるとか」
「ネットワークに普段流れているような、人間が作るようなウィルスは私達AIには影響はありませんが」ルカが言った。「AIにも有効な、軍用の砕氷兵器(ICEブレーカ)のような国家レベルの大規模破壊用電脳兵器が、目標を”猫化”するように作られるなどとは、非常に考えづらいことですが、……ただし、『敵は海賊・猫たちの饗宴』という旧時代から伝わる古典小説の記述には人間もAIすらも強制的に猫化するシステムについての」
「いやその旧時代の話だとかはとりあえず除けといてさ」リンは小声で低く遮った。とはいえ、遮りはしたものの、何か言うことや、沈黙を確保してまでこの場でやらなくてはならないことが思いつくわけでもなく、──三者は遠巻きに観察する以外に何ができるでもなく、二つの猫スーツの背中を見つめていた。
 ……と、MEIKOが、両手に買い物袋(片方はほとんどS@PP○R○ S○FTの酒瓶しか入っていないが)を提げて、居間に入ってくる姿が見えた。
 MEIKOはふと、低テーブルの猫スーツのKAITOとミクを見ると、屈みこんで、かれらに何か言ったようだった。
 ミクの何か驚いたような様子が見えた。
 ──やがて、KAITOとミクが猫スーツを脱いで、MEIKOと共に居間から出てこちらに向かってきた。リン、レン、ルカの三者は、黙りこくって立ったまま、そちら側の三者の姿を見つめていた。
「リン……」ミクが悲しげに、脱いだ猫スーツを差し出して言った。「ごめんなさい」
 リンは眉毛を瞼に密着するかというほどにしかめて、そのミクを見つめた。心当たりのあるうち何のどの部分を謝られているというのか、さきほどの居間の中でのミクの姿を眺めていたとき以上に、一体何をどう反応してよいか、皆目わからなかった。
「知らなかったんだよ。これが、『リンとレン』のデュエット用のステージ衣装だったなんて」KAITOが自分の分の猫スーツを、レンの方に差し出しながら言った。
「いや……」リンはようやく、呻くように言った。「別にいいんだけど」
 猫スーツ自体は理解できた。いつもながらMEIKOが一人で進めるやら何やらで、自分の知らないところで動いていた企画のようだが、リンとレンの、少年少女双子の衣装の芸風としてならば、いかにもありそうではあった。それを知らなかった姉らが無断で衣装を使ったりも、別にリンは普段から気にするようなことでもない。そして最後の問題、いくらそれを見つけたからといって、この”兄と姉”は、それを自分達で家で喜んで着て、こともあろうにちゃぶ台で丸くなるか、という点に関しても、──なんとか、最初にルカに言った『ちょっとやそっと』のあり得ることの範疇に、無理矢理押し込めようと思えば押し込めておけそうだった。──そうだ。今回に関しては、別にたいしたことではない。なんとかそう思える気がする。
「でも、よくわからないな」KAITOはふと、自分の方の猫スーツを、あらためるようにしながら言った。「なんで間違ったかって理由でもあるんだけど、これ、リンとレンのだとしたら、サイズが大きすぎるんだよ」
「そりゃ、あらかじめずっと大きいサイズで発注してあるからよ」MEIKOが言った。
「何故ですか」ルカが無表情に訊いた。
「勿論、折角だし『私とルカ』のデュエット用の衣装としても使えるように発注したに決まってるでしょ」MEIKOは猫スーツの胸のあたりの内サイズをなぞりながら言った。
「なるほど」ルカが無表情に同意した。
 レンが、自分の手の猫耳スーツと、MEIKOとルカとを、おそるおそる、しかし何度も繰り返し、頬を赤らめつつ見比べた。
 リンはゆっくりと屈みこんで、頭を抱えた。やがて、呟くような小声で言った。
「……もうやだこの一族の芸風」