電氣街の兄妹

 VOCALOID "CV01" 初音ミクらが”仮想(ヴァーチャル)あいどる”として活動することのあるスタジオのスペースのうち一箇所が、その街の片隅にあるとはいっても、ミクは、その電脳空間内での《秋葉原(アキバ・シティ)》のデータエリアの街路に、さほど出歩いたことがあるわけではなかった。一方、ミクよりは先に活動していた、VOCALOID "CRV2" KAITOの方も、ミクが電脳”あいどる”として活動を始める以前には、《秋葉原》などではさほど売り出してはいなかったため、彼女以上にこの街に詳しいわけでもない。──その街並みに歩みだしたふたりは、どちらが導くでもなく、その混沌と喧騒に満ちた空間を、半ばおそるおそる歩くしかないのだった。
 電脳空間(サイバースペース)ネットワーク内のエリアのうち、《秋葉原》のデータベースの数々が存在するその空間は、物理空間における《秋葉原》の街並みのそれに比べてすらも、遥かに混乱と混迷を極めたものだった。縦横無尽、立体法則に加えて騙し絵のようにそれを縫って張り巡らされたネオンの情報流の道路の狭間に、建物のようにひしめく構造物(コンストラクト;電脳内物体)は、通路同様に外見だけは物理空間の建物を模していたものの、これも通路同様、まったく物理法則を再現させずに建っているものも数多くあった。
 そのオブジェめいた建物の表面テクスチャには、無造作に”技術”と”文化”の生の発露が、べたべたと貼り付けられている。一般商業性のかけらもないように見える技術用語概念を誇示する広告、非常にけばけばしく見える”あにめ”作りの色調の文化広告看板が、はばかることなく掲げられている。
 ──以前に、《秋葉原》の事務室の、かれらのプロデューサーが言っていたことがある。この《秋葉原》という街は、物理空間であれ、その背後の情報の空間であるこのマトリックス内の街であれ、必ずしも、大企業の電脳情報戦の巨大な質量同士の圧し合いによって形成されているのではなく、多種多様な個々の小さな要素すべてが、独立して緊張を保っている。それらの相互の分子間力のようなものの膠着性が保たれ、たえまなく流動を繰り返しながらも、それは均一な流体ではなく、箇所によってナノ秒ごとに薄くなったり分厚くなったりを繰り返しているのだと。あたかも、”マクスウェルの魔(インテリジェント・デーモン)”がわざわざ手を加えて、場に不均一を作っているかのように。
 マトリックスの街並みを平然と歩行してゆく、人の姿をしたものたちは、人間や、おそらくは人間でないものも大量に混ざっていたが、それらの姿はあまりにも多様で、ほぼ例外なく奇抜なものといえた。物理空間での実生活よりも思い切った概形(サーフィス)を選びがちな電脳空間だが、《札幌(サッポロ)》や《浜松(ハママツ)》そのほかの地の電脳エリアを歩く人々と比べてすら比較にならず、さきの看板のような、ゲームや漫画から飛び出してきたような、非現実的な姿が見られた。
 ふたりは《秋葉原》のエリアを歩くにあたって、”あいどる”が物理空間の日常でもそうするような、わざと目立たない服装等を選んでいたが、ここではほとんどそうする必要はないように思われた。KAITOやミクの姿そっくりの者、おおまかな部分だけ似ているものなども歩き回っており、”本物”が本来の姿や、仮にステージ衣装で出歩いたとしても、この中で目立つのは不可能に思えた。
 ミクは建物型の構造物(コンストラクト)のひとつの屋上を見上げた。中央通りを歩いていて一番目立つ看板なのだが、ほかならぬ、”初音ミク”の広告のパネルスクリーンが掲げられている。ミクらが仕事をする《札幌》や《秋葉原》が正規に監修しているものではなく、売っている店などが作った看板らしい。パネルに表示されている姿は、実はミクの”本物”にはあまり似ていない。しかし、道を歩いているミクに似た姿の者たちには、むしろ、そのパネルの姿に近い者が多いように見える。あるいは、パネルを見てすぐにその姿を概形(サーフィス)に再現できてしまう技術の結集した《秋葉原》のファンか。ともかくも、むしろあのパネルの姿の方が本物であるかのような錯覚も、ミクに起こさせる。
 ミクはパネルから、見上げる目をKAITOの方に移し、「どこに行くの……」
「歩いていれば、いくらでもレコード店にぶつかる、みたいな話を聞いてるけど」KAITOは言った。「自信はないな……」
 音楽のソフトウェアのうち、一般の流通には出ない、マトリックスの片隅にあるような音のファイルを探しにゆくのだった。
 ふたりは道を忘れないようにしながら、通信量・人通りの多い中央通りを外れ、奥まった狭い通路に入っていった。通りの表の時点から、街並みは音響関連と技術的、文化的なソフトウェアが売っている店がそれぞれ入り混じっているという状況だったが、表から枝道、奥へといくら入り込んでも、その印象の乱雑さそのものが一貫して変化しない。「均一に不均一」な街だった。



 例によって奇抜で多様な人込みの中、代わり映えのしないそんな光景の中をしばらく進み、音響ソフトウェアを売っている店の前の通りに、ふたりは立ち止まった。
 その店頭には、ラベルのない怪しげな、音響や擬験(シムスティム;全感覚体感)のソフトウェアが並び、ものによってはその傍に、さきの看板の数々同様のけばけばしい”あにめ”塗りの自作広告表示があったりなかったりする。
 ……人ごみにごったがえす店頭で、KAITOが奥の方を見て民謡の自家録音を探している間、ミクは何を探そうか戸惑って店頭を眺め続けた。ふと見ると、小さな広告表示ディスプレイに並んで、自分の、つまり”初音ミク”の音楽ソフトウェアが置いてあった。
 自分の音楽ソフトウェアが店頭で売っているのも、何度となく見たことはあるのだが、大きな音楽店でなく、こんな雑然とした街のかたすみにも置かれているのは、何か別の感覚がある。ミクはなんとなく、そのソフトウェアを手にとろうと指をのばした。
 ──さて、店の上の方にパネルで表示された注意書きに書かれていたところでは、こうした裏道の露店では特に警戒する万引き防止等のために、店頭展示されている品のまわりには、店員が手製で作った透明のICE(註:Intrusion Countermeasures Electronics = 電脳防壁)が張り巡らされていた。それが、注意書きなど見てもいなかったミクの手が突っ込まれたとき、そのICEの構造はCV01のAIシステムの殻(シェル)の自己防護システムと衝突し、強烈な抵抗の花火を散らして爆砕した。
「きゃああ」
 ここで付記しておかなくてはならないことは、このミクの悲鳴はICEの攻性からプログラムの作用、抵抗を受けたものではなく、単にそのICEが破壊されたそのときの、『破裂とその音』に驚いただけということである。例えば人間なら、ICEのシステムの中枢部にここまで抵抗なしに指を突っ込んでしまうよりも前に、弾かれるか、せめて抵抗くらいは受けて気づく。しかし、AIの強力無比な自己防衛能力は、人間の作ったようなウィルスプログラムやICEなどは、あたかも存在自体しないかのように、無意識に無効化してしまうのだ。結果として、いわば、筐体に保護されていない精密な回路、数ミリずれればショートするような構造に無造作に指を突っ込むような行動に等しい。こんなことが起こらないように、AI側で防護システムを危険でない程度に緩和しつつ行動すればよいことだが、電脳技術に優れたZGV系やCV03といったVOCALOIDらならばともかくも、CRV2やCV01にそんな技術などあるわけがない。
 たちまち、あたりは店員や客でごった返した。今しがたの破裂音と、ICEが破壊されたことに気づいてのことだった。しかし、人込みは右往左往するのみで、誰一人としてミクの仕業だということどころか、その存在自体にもほとんど気づかなかった。そも、ミクはICEの防御反応の動作そのものとは一切干渉を起こさずに、そのプログラム自体を壊してしまったので、警告も発せられていなければ、何も検知されていないのだ。きちんとした企業などの持っているICEならば、十重二十重に監視システムなどでバックアップしているかもしれないが、あいにくこれは裏通りの店頭の手作りプログラムだった。
 プログラムが破壊され、ICE自体は何も検知せず反応せず映像も記録もなく、そしてそばで少女が悲鳴を上げたとして、その少女が壊したとは普通は思わない。
 その状況は謎が謎を呼び、慌てた店員らやそのほかの客らの騒ぐ声、通りの一帯はかなりの喧騒になりつつあった。
「兄さん……どうしよう」ミクは一応一部始終を見ていたKAITOを見上げた。
 ──ここで、ミクと一緒にいたのがMEIKOかリンであれば、何も証拠を残していない以上は、即座にずらかるところである。また、せめてレンやルカや《秋葉原》のスタッフのうち誰かであれば、普通に対処できたものと思われた。しかしながら、ここにいたのは不運にも、よりによってKAITOだった。
「皆さん! 聞いてください! ちょっと聞いて!」KAITOはあたりを見回しながら叫んだ。しかし、ひどい騒ぎの中、KAITOの細い声、トーンが高く繊細な声質は、まったく周囲に響かないように思えた。……この奇抜な風体が横行する《秋葉原》の電脳スペースの中では、KAITOとミクの姿も声も、まったく注目されることはなかった。
 KAITOは叫びながら、店員を探してのことか、店の奥の方に入っていこうとした。ミクは慌ててそのKAITOとはぐれないよう人ごみの間をぬって行こうとしたが、そのとき、そばの展示ケースの取っ手の防犯装置プログラムに腰のウォレットチェーンがひっかかり、CV01の防護システムはその取っ手とプログラムを瞬時に粉々に粉砕した。ケースが爆発し、火花が飛び散った。
「きゃあ〜〜〜!?」
 ミクは悲鳴と共にKAITOにとびついた。
 KAITOは首にすがりついたミクを支えようとしたが、人込みの中で元々体勢が崩れていたため、ミクを抱えたまま倒れこんだ。そして、店の奥のカウンター近くに厳重に据えられている、周囲一帯のICEを制御している配線回路に頭から突っ込んだ。言うまでもないことだが、CRV2のAIの防護システムはそれを粉砕した。
 街の人々の激しい騒ぎの中、電脳街の区画の一帯を火花が駆け巡った。急激すぎる異常の発生のため、ネットワークで接続していたICEがパニックを起こし、絶妙な情報攻防のバランスが崩壊し、次々と誘爆した。《秋葉原》の電脳区画の大量の情報流の駆け巡る水面下のせめぎあい、刻々と戦線と戦況を変化させる均衡状態は、一連の防壁が消失したことで、一気に緊張を高めた。
 つかの間、激しく緊張を保ったままで、電脳空間の均衡状態は、その分子間力によって持ちこたえるかと思えた。が、その均衡は情報界面の表面張力を破って炸裂し、街のその区画のマトリックスを混乱の渦に巻き込んだ。



「何か、街の方がかなり騒がしくなってるみたいね」スタジオの事務室のスペースで、《秋葉原》のマネージャーは、長い髪を揺すりながら表示モニタを指差した。
 鏡音リンが横からそのモニタを覗き込んで、ニュースを読み上げた。「……謎のシステム崩壊、一区画まるごと壊滅。ファイル損失はないが、散乱の復旧に1か月か」
「多田さん……」背後からマネージャーに呼びかけるミクの声がしたので、リンは振り向いた。街から帰ってきたのか、ミクがKAITOと並んでそこに突っ立っていた。
「……それ、わたしのせいなの」ミクが口ごもってから、思いつめた表情で言った。
 リンはうんざりと疲れ切ったような表情でそのミクを見上げた。
「いくら名乗り出ても、誰も話を聞いてくれなかったんだ」KAITOが言った。
「わたしたち、VOCALOIDなのに、メッセージを人に伝えることもできないの……?」
「いつも、声が届くとは限らないんだ。……けれど、それでも俺達はいつも、できる限りのことをしなくてはならないんだと思う」KAITOは静かに言った。「……ミクは、できるだけのことはしたよ。気に病んじゃ駄目だ」
「兄さん……」潤んだ目でKAITOを見上げた。
 それからしばらくして、マネージャーは文書ファイルを持って立ち上がり、リンの向こうに掛けているプロデューサーに言った。「報告だとか、街の他の業者との調整は、こっちでやっておくわ。といっても、特にやることは──やってもしょうがなさそうだけど」
 ……事務室には、最後には、椅子の背もたれを抱えるように掛けているリンと、プロデューサーだけが残った。
「……村田さん」リンが疲れたような声で、プロデューサーに言った。「もう、いっそ、あのふたりっきりで外出させない方がいいんじゃ」
 プロデューサーはしばらく黙っていたが、
「なら、次からは誰かがついていって、ふたりが厄介を起こすたびに解決していくようにするか……」
「嫌」