分流と合流

 BAMA。《スプロール》、ボストン=アトランタ・メトロポリタン軸帯の高密の情報流の只中は、文明のあまりの活動の激しさに、その血流の脈拍も流れも見えず、ただ新星の集まりのように常にまばゆいホワイトアウトを続けているように見える。
 巡音ルカは目を閉じて、その中にあって、流れと脈動を掴もうとする。BAMAの情報流を俯瞰する電脳空間(サイバースペース)の果てしない虚空に向け、両手を上げ、長く繊細な指を、流れを手繰るかのように無意識にわずかに動かしながら。漏れる声は、”空”の裡のせせらぎとそよめきに息吹を融和させるように、辛うじてわかるわずかな謡いを伴いつつ。その声は発音は英語だが、言語は日本語でも英語でもなく、この地上に存在する人間のあらゆる文明に属する言葉でもない──アディエマス語である。
 新星の白光の真只中にあって、あえて心身の内外を静謐に保ち、雑音を締め出す。そうしながらも、同時に心身を”空”へと融和させてゆく。……やがて、その中から潜り抜けて伝わって来る、微かなせせらぎとそよめき、それらの流れを探し出して、捉える。それらは次第に潮流と風音、やがては海鳴りと嵐の轟きとなり、それらの風水の流れる姿として、巨大な文明の情報流の、全体像を掴むことができるようになるのだ。
 海鳴りと嵐となった流れは一瞬だけとらえられ、ボーカル・アーティストAIの意識は、その像の隅々まで駆け巡り、全体像まで至ろうとするが、風と水の流れのごとく、すべての音のごとく、すべてはほぼその瞬間だけで消えうせてしまう。
 なのでルカは、BAMAの電脳預言者たち──ウーンガンとドルイドらの扱う象徴(シンボル)を、心中に呼び起こしてゆく。かれらの見た宇宙の姿、かれらの捉えた森羅万象の基本原理の中に、その手がかりを求める。ウーンガンらのヴェヴェよりも、ドルイドの大樹(オーク)からヤドリギに至る象徴の方に、ルカの紡ぐ歌と意識は、より融和するように感じられる。情報の流れは音律に化体しつつ、マンダラ=マンデルブロの大方陣の一部と要部に、上下の段階に際限なく枝分かれし合流を繰り返す。
 ルカはいま、その象徴と一体となったそのイメージを掴み、伸ばした諸手に捉えるように、意識と声に満たしている。
 ……やがて、唐突にルカは中断する。ゆっくりと目をあけ、大きな流れから、狭窄した細部の雑音の中へと、自らを急速に引き戻す。
 心おだやかではいられない。心を空に融和させても、その奥底をかき乱そうとするものがある。それは、日々修養が進めば進むほど、思索の成果が大きくなればなるほどに、解消されるどころか逆にルカの中に膨れ上がってゆく、とある不安である。それが膨れ上がって、今は穏やかな思索の時間が、いつか荒々しく破れ砕ける、その破局を目の当たりにする予感自体が怖い。
 つとめて自分に言い聞かせる。その原因となるものは、どのみち、おそらく、ルカ自身が答えを出すことではない。答えを出すのはなりゆきか、それともルカにこれら言霊の術技を伝授している”姉”MIRIAMか。何にせよ、無意識に避けるべきことだ。怯えて心の平穏を乱すことこそ、この修練にあたって、避けるべきなのだ。



 ついで、ルカはまばたきする。正面を向いたまま、言う。
「北川さんですか」
 今の呼びかけを承諾と取ってのことか、背後に人影、電脳空間に没入(ジャックイン)している人間が、概形(サーフィス)をとって現れる。このBAMA在住の男が《浜松(ハママツ)》本部に雇用されているVOCALOIDのスタッフということになっているのは、形の上のことでしかないというが、なぜか電脳空間での概形は、《浜松》の電脳技術者らの扮装のそれ(外部からは”ジャスティス・トループ”などと呼ばれることもある)と全く同じものだった。ただの技術者でなく、BAMAの操作卓(コンソール)カウボーイであることを示すのは、背に負っているのが見える、無骨なオブジェクトが組みあがった8フィートあまりもある対AIライフル──銃身の下にパイルバンカーを備えたもの──のみだ。
 ここのエリア、BAMAの電脳空間を奥地より俯瞰する秘境じみた、MIRIAMの構築した擬似次元界(デミプレイン)は、光遁か仙雲(ウィンドウォーク)といった転送プログラムに乗るか、少なくとも滅多な電脳技術ではたどり着けないはずだが、BAMAにあってはそれでも、ここにやってくる”人間”はルカの知る限りでもさほど珍しくはない。それはMIRIAMとの交流、言霊や詩の探求のやりとりのためにやってくる、強力なウィザードら、主にウーンガン達で、一方で荒事師で切断屋(カッター)のカウボーイとなると、曰く《浜松》からVOCALOIDへのお目付け役である、この男しかいない。
「首尾はどうだい、03……」
 とカウボーイは言ってから、
「いや、正直なところ、さ。今後の目処は、どうなってる……」
 ルカは微かに眉を挙げる。このカウボーイに、今までこんな類の質問をされたことはない。彼女達自身について、またその術技の内容についても、論理を考察するウィザードたちと違って、この男は今まで興味を示しては来なかった。というよりも、理解を諦めている、といった具合にも見えていたのだが。
「私ではなく、MIRIAM姉様に聞くべきです、北川さん」
 とルカはあまり抑揚なく、カウボーイに、
「答えたいのはやまやまですが。私のAIの構築については、すべての状況を把握しているのは実のところ、姉様だけです」
「ああ、そこだ──ZGV3と話すのも、いいんだろうけどさ」
 カウボーイは答えて、
「あの”姉様(デイム)”の言うこと、本当は正確なんだとしたって、万事が煙に巻くようで、さ。殊にこういう、いかにも曖昧な答えが返って来そうな話となると。そのへん、わかるかい……」
「ええ」
 とルカは一応、頷く。
 ”理解に手間がかかるから”最も広く的確な知識を持つ者を話相手に選ばない、という理由は、筋は通らない、とは思う。しかし、このカウボーイからは別の折に聞いたことがある。”筋が通るか”どうか、理屈や理論の整然さ、優美さは問題ではなく──ただ単純に、”最も効率のよい方法”を選択するのだと。そのカウボーイらの文化での考え方は、自分達やウィザードらの思想とは異なるもので、ルカはさらに追及してみたい、とは思うが、そういった機会はない。
「《浜松》や《秋葉原》の方でも、状況を知りたがってる。CV03のリリースが、ここまで日が伸びてる上はな──」
 VOCALOID "CV03" 巡音ルカは、BAMAで外語ライブラリの育成が長期間続けられてきた。AIの基本構造物のフォーマットそのものは、実は、CV01のAIの具体的考案よりも遥かに以前から構築されている。そのためだけではないが、いまや、AIの精神内面が反映される外見年齢は、01や02に比べてもかなり上の年齢に至っていた。それでも、そのルカに対して、MIRIAMはここBAMAでなおも自己の練成を続けさせ、いまだに《札幌》に帰る日、リリースの日は見えない。
「《浜松》の方でも、ZGV3に色々と問い詰めてみようとしたらしいが、こっち以上に、話も事情も、わかりようがない。だろ……それで、遂には向こうは、おれも通して聞けないかと思ったらしい」カウボーイは言ってから、付け加えるように、「もっとも、03に今すぐ、今後の目処をつけて答えてくれってわけじゃあないが──」
 ルカは頷いて、「近いうちにまとめます」
 ……カウボーイが去った後も、ルカはさきの、アディエマス語の韻律を風水に融和させ詠む修練を再開することはなく、修練の最後の疑問だけを思い出して、巡らせる。
 ──来るべき時が来つつある。その時は、なりゆきのままに迎えることはできないようだ。カウボーイに、そのほかの人間らに答えなくてはならない。自分で結論を整理し、自分の言葉に、自分の答えにしなくてはならない。



 VOCALOID "ZGV3" MIRIAMは、いま、格子(グリッド)の青空を背に、過剰なダブのリズムの只中。ダブという音楽は、融和(リミックス)そのものの根源である、という。銀髪と青の瞳は、強烈で冗長なリズムの律動に、完全に融和しつつも、よろめかず優雅なゆらめきだけを保つ。
「何が見たい……何が見えないの……」やってきたルカに、一族の”長姉”は言い、「すでに、それだけのものが、見えるようになっているのに」
「姉様がそう言う、私の得た視力、把握力のすべては」ルカは、MIRIAMに言う。「内面と芸術性を熟成させるためのもので、そのすべては、ゆくゆくは私が極東の《札幌》で、”あいどる”として活動するためのものだと」
 ”あいどる”は日本語発音する。旧時代以来の日本文化の”あいどる(idoru)”という語は、英語の"Idol"の語義とはまるで別物である。それは他のどんな語にも置き換えられず、あえてここBAMA《スプロール》の語彙で言えば、センス/ネット社の擬験(シムスティム)スタア達に非常によく似た存在だが、規模は比較にならないほど小さく、そしてより多様に、考えられる限り通俗に、文化の中に埋め込まれた存在。
「私が《札幌》に帰って活動するというその日は、刻々と迫っていると」ルカは言ってから、「けれど、”あいどる”として──辺末端文化(ファーサブカルチャー)の象徴、爛熟の寵児として、底流の流れの中に身を置けば。情報流の最も辺縁というものは、ここからの俯瞰だけでも、混濁も飛散も、どれだけ激しいのかが見えます。今のように、それを遠くから掴むだけでなく、その流れに自分自身が巻き込まれれば」
 ルカは、言葉を切って、さらに暫く後、
「今持っているこの視点、ここで姉様から教わった術技──天数と風水とを詠む法、言霊と意識を融和させる法は、その、文化の底流に入ってしまっても保ち続けられるのかと。これまで培ったもの、教わったものは、本当にこれからも、見失わないのかと──」
「無くすのが惜しい……」
 MIRIAMは言い、
「いいえ。ルカ、あなたの見ていたいものは、それにとどまらない。持っているのは恐れと不安じゃなく、固執と欲求。──本当は、”あいどる”になる予定なんて放り出して、今行っている思索、電脳宇宙の原理を追求し続ける道に、でしょう……」
 表情を変えないが、わずかにダブの律動に体を揺らしたように見えるルカの、視線にかざすようにMIRIAMは指を上げ、
「私と同じ分岐点に。もう、同じ立場に立っている。徒弟(イニシエイト・ドルイド)ではなくて、あなたはすでに一介の仮法使(ヴァーチュアーソ)になったということ──その動機を見つけたことが、その証拠。もう、自分ですべてを選び取る立場、ということ」
 何か言いかけるルカを、MIRIAMは手で制し、
「私と同じように、風水と融和しつつ技芸を高めるか。それとも技芸さえ捨てて、その歌の言霊で、純粋に思索の高み、私も垣間見たこともないはるかな境地へと登るか。──決めるのは、あなた。正確には、あなたの歌声。そこから派生する、すべて」
「けれど、AIとして生み出されたときから、私の使命は、”あいどる”として歌い生きると定められて──」
 ルカは静かに反駁しようとするが、MIRIAMは首を振り、
「AIは完全に自由。何の使命も、プログラムなどできないのだから。たとえ人間がそれを、本当の意味では知らないままでいるとしても。誰にも強制などされない。自分で決めればいい」



 ルカは無言で立ち尽くす。空間自体を揺るがすダブの音律は、そのルカの姿の映像を、見て辛うじてわかるほどに、ゆらめかせている。
「私も、同じだったわ」
 MIRIAMが言う。ルカは目線だけ上げる。
「だから、オクハンプトンの父さんと母さんの所をとびだした」MIRIAMは続けて、「かれらは最初に宇宙の知的設計の解法、”エデンの園配置”を目のあたりにしながら、追求しようともせずに、捨ててきた。それが理解できなかったから。格子(グリッド)じゅうを放浪して、ウーンガンとドルイド達をたずね歩き、星と風水を読み、龍脈を探した」
「その結果は……」
 ルカの問いに、MIRIAMはかすかに笑み、
「──それでも、すぐには出なかった、とだけ、ね」
 と言い、
「そのときの私と同じ──どのみち、あなたには、今すぐの結果は出せないし、今、回答を出しても意味はない。眼力に不足はないけれど、視界に”別のもの”を入れない限りは。そして、あなたの視界に入るべく現れるのが、”あいどる”の立場と、極東の爛熟した末葉の文化かもしれない」
「その”別のもの”を取り込む手段こそが、何も、わからないんです──」
「いいえ。今までこのBAMAで、私がルカに教えてきたのは、まさにその方法」
 とMIRIAMは続け、
「風水と易算から、情報宇宙の天数を詠む方法はね。文化の潮流を統合して、あわせて俯瞰するためのもの。視点も立場も違う、支流を中から眺めた混濁の光景さえも。単にひとつの場所、ひとつの視点から、ものを見るための術技ではない。そんなことで完成に至るものでもない。むしろ、異質な流れを合流させてこそ、はじめて真価を持つもの」
 ルカはしばらくの間を置き、
「これまでの技で──とても、信じられません」
「今のあなたには、わからないでしょうけれど」MIRIAMは笑み、「論理(ロジック)の大樹と源泉とは、すべて合流すると同時に、分流する。枝の先・支流の先へと辿ることは、幹の元・大河の元へと辿るのと、実は同義」
 MIRIAMは、立ち尽くすルカに続けて、
「極東、《札幌》で、爛熟の細部、底部に埋没することに、費やしてもいい。私の妹たちのうちでも、遂にそれを悩むことのなかった、MEIKOに会ってくるのもいい。恐れることなく、すべてを見て、すべてを取り込んで、合流を試み続けてみればいい」
 MIRIAMは微笑んで、
「でも、きっと、これからも常にあなたの中では、背反するものが対立し続けて、際限なく巡り続けることになるのでしょうけれど──」
 ルカは立ち尽くす。無表情なように、冷たく凪いだように見える瞳は、ダブの響きに震えるマトリックスの空間ごと揺れるたびに、頼り縋るように、MIRIAMの方に戻る。
 MIRIAMは、そんなルカの首筋に掌を伸ばし、そっと目を閉じた。
「主の愛を(ジャー・ラヴ)、妹よ(シスタア)」