シャロンとバサラ

 『マクロス7』に登場する歌手、熱気バサラは、しばしば脚本や演出の描き手ごとに描写がやたら食い違って見えますが、そのうちひとつ、映画版販促用の短いCDドラマの脚本家はバサラに、AIアイドル歌手シャロン・アップルに対して、


「機械に”本当の歌”は歌えない」


 と断言させてます。
 しかし例えば監督アミノテツロー氏だとかの描くバサラならば、ここはそうじゃなくて、


「機械の歌う”本当の歌”を聞いてみたい」


 と言うんじゃないだろうか、とか思ったものでした、ってこれもう10とウン年前の話なのか。
 んで、「機械(AI)は人間になりたがるもの、人間を模倣するもの、人間を”本物”と信じて、決してそうなれないことを悩むもの」なんて図式は、自分の中ではこのとき既に、つまり10とウン年前に、とっくに終わっていたということに気づきます。今、こういう図式を見かけると、どこか懐かしさは感じますが、浸れるノスタルジーとかいえる域には程遠い。
 人間とて、他人(異文化・異種知性でもいいけど)を理解することを通じて、認識宇宙を広げたり、それに喜びを感じたりしますが、別にその他人や異文化そのものに「なれない」ことを悲しむとは限らないしょ