イラストとかならばやたらとよく見る場面

 《秋葉原(アキバ・シティ)》の電脳空間内スタジオエリアでの収録の合間、《秋葉原》のプロデューサーと、《浜松(ハママツ)》から出向のウィザード(電脳技術者)の一人が話していた間に──初音ミクは、ソファの上でぐっすりと眠っていた。二人が目を離してから、わずか10分にも満たないのではないか。
「村田さん、小野寺さん」KAITOが二人を見上げ、並んでソファに掛けたまま、自分によりかかるミクを示すように、「寝ちゃったよ」
 KAITOはそんな、誰でも見ればわかるような、この上もないほどに頭の悪いことを言った。そんなミクを、起こしたり促したりといったことは、しなかったらしい。KAITOはミクと一緒の仕事のときであれ、仕事に付き添うときであれ、いかにもただ一緒に来るだけのように見える。ウィザードが以前にこのプロデューサーから聞いた話では、ミクに仕事を促したり、あるいは働きすぎないよう止めたり慮ったりするのは、もっぱらMEIKO(まれにリン)の役割で、KAITOはミクに対して、たしなめることも干渉することもできないらしい。……”ろくに何もできない男”のような言い方だが、プロデューサーが必ずしもそういう口調には聞こえなかったのが、ウィザードの気にかかることではあった。
 ソファのミクを見下ろしながら、若いウィザードは道士(タオシー)が易算で指を折るかのように、小刻みに印を切るように片手の指を動かした。実際は、物理空間の方にある彼の肉体が、電脳空間(サイバースペース)デッキを叩いているのだろう。
「居眠りなどじゃありませんね。相当に深い」ひととおりCV01の概形(サーフィス)部からのスキャンを終えて、ウィザードが言った。「全面的な疲労回復(リカバー)に入ってしまっている。いま起こしても、再起動にしばらく時間がかかりますよ」
 ミクはあまりにも幸せそうにKAITOによりかかり、深い眠りについている。AIは永久稼動し、休息を必要としないというのは──普通に使っている上ではプログラムは決して停止しない、つまり”オペレーティングシステムは落ちない、ソフトウェアは破損しない”というのと同じような、単なる建前の絵空事にすぎない。データ的なストレスや不都合はいくらでも起こり得、それはチューリング登録されたAIほど高度なプログラムであっても、というよりもそれほど複雑無比なプログラムであれば、かえってそうである。それでも、CRV1やPFXV2はほとんど無尽蔵の活動能力を持っているが、CV01というAIはそういったストレスには弱い方である上に、それらにさらされる機会である仕事量は遥かに多い。
「待ちますか」ウィザードはプロデューサーに目を向けた。
「いや、切り上げる」そして、プロデューサーはKAITOに向かい、「ふたりとも、今日はもう《札幌(サッポロ)》のエリアに帰ってもいい」
「しかし」ウィザードが口を挟んだ。「収録は? データ収集は?」
 実質よりも、こんな突発的な事故で、ものごとをすぐに予定から外し中断するというのが、理詰めの彼にとって反射的な違和感がある。
「ミクがこういう状態になったということは、どのみち、いつか休ませる必要があったということだろう。それが今になっただけの話だ」プロデューサーは眼鏡を押し上げて、眠るミクを見つつ、「むしろ、今中断できるぶん幸いと考えるべきだな。これ以上無理がかかっていれば、ミクにも、我々の予定にも、もっと取り返しのつかない不都合が生じていたかもしれない」
 プロデューサーは上着を肩に掛けると、スタジオエリアの出口に向かい、扉付近でその姿はかすかに瞬いて消えた。どうやら、プロデューサーはそのまま離脱(ジャックアウト;註:感覚を電脳空間から切断し物理空間に戻ること)してしまったらしい。
 KAITOが、ソファの上のミクにそっと自分のコートを掛けた。ウィザードは、そんなKAITOの動きをしばらくの間、睨むようにして見つめていたが、
「聞こえていましたよ、CRV2」
 やがて、ウィザードは上目遣いでKAITOに言った。
「なに、小野寺さん……」
「ふたりで待っていたとき、貴方が童謡を歌っていたのを、知っていますよ」
 仕事の合間のわずかな時間に、できるだけくつろごうとする、そんなミクに対して、さらに寝かしつける子守唄のように、あの優しく澄んだ声で。
「よりによってここで、こんなときに。貴方がそんなことをすれば、どういう結果になるかはわかっていたはずだ」
 初音ミクは悩みを溜め込みがちで、いわば、人前で眠るのを我慢し、そして結局人前で倒れてしまうようなタイプだ。こんな場所で眠ったりするような娘ではない。──よほど、安心しきってしまうようなことがない限り。
「まさか」KAITOはいつもの穏やかな笑顔で、「俺には、それしかできない、それしか歌えないから、いつもそうしてるだけだよ」
 KAITOは眠ったままのミクを抱き上げ、スタジオエリアの出口に向かっていった。
 ……ろくに何もできない男、”それしかできない男”だと。──そして、ただ、それだけのことをするだけで。
 一人残されたウィザードは、スタジオにしばらく立ち尽くしてから、呟いた。
「”卑怯な奴”、か」