そのうち長編のどっかに使うやもしれない断片

 カプセル状の保存ベッドの操作パネルに設置されたアラームが鳴り、時間表示が点滅した。カバーのLEDのひとつが点灯すると、排気と共にベッド内外の気温気圧が調整され──同時に、ベッドに保存されたボディ中に人格構造物ソフトウェアが定着する。『初音ミク』という存在が、電脳空間(サイバースペース)から、物理空間(フィジックスペース)へと"離脱(ジャックアウト)"する。
 多量の湯気を発しながら保存ベッドのカバーが開き、ミクのボディが、人間がベッドから起き上がるのと全く同様の仕草で、上体を起こした。
 普段は基本的に電脳空間上、すなわち物理空間の市街と全く同様に作られたスペース上に存在し生活するAIソフトウェアらの精神が、物理空間、実際の地上の街に安置してある専用のボディを必要とする機会は、一般には少ない。が、VOCALOID、特にミクの場合、今日のように、ライブなどの仕事に物理空間のボディを使う必要が、たびたび生ずる。
 ……ミクはベッドに上体を起こしたままで、なんとなく指を動かすが、それはボディそのものの構造の不自然さのためではなく、保存していたベッド内の環境から外気にボディが慣れるのに、少し時間がかかるためだ。……AIにとって、電脳空間内での自分の"肉体"、電脳イメージの構造物(コンストラクト)の手足を動かすのと、こうした物理空間のボディを動かすのは、感覚的にほとんど差がなく、ミクはときどき今どちらの空間にいるのか忘れそうになることさえある。特にAIにとってはそう感じられるのは、どちらの"肉体"であっても、所詮は下位のプログラムを介して動かすものにすぎないためだ。ミクはここ《札幌(サッポロ)》のほか、《浜松(ハママツ)》と《秋葉原(アキバ・シティ)》にもひとつずつボディが置いてあり、いずれも少しずつ仕様や性能が異なるが、動かしていてその差を意識することはほとんどない。
 そういった意味では、この《札幌》のボディも、ミクの"肉体"というより、AIの一周辺端末にすぎない。CV01のAIソフトウェアの"本体"は依然として電脳空間に存在し、しかもそれは物理的にどこかのスペース(例えば12丁目駅近くの本社や、チューリング登録機関のあるジュネーヴの、AIプログラムのバックアップ)に固定されて定着しているわけではなく、CV01とは、電脳空間に拡散したものの総体以外の何ものでもない。極端な話、ユーザーらの個人の電脳端末(PC)にインストールされた下位(サブ)プログラムのひとつひとつが、それぞれ独立した存在でもあると同時に、CV01というひとつのAIの、別々の一側面でもある。電脳空間において、AIの「総体」と「部分」との間には、明確な区別をつけることは難しい。
 ……このマンションの一室の風景は、ボディの保存ベッド──例えば人間の義体の保存用など──を含め、特に珍しいものではない。ボディが外気に馴れてゆくまでに、シャワーで冷却用のリキッドを洗い落とし、簡単な身支度だけをする。きちんとしたメイクはスタジオについてからで、今行っても、路上で一般人の中で目立つだけだからだ。
 このミクのボディは生体組織が多くを占めるもので、肉体的には、身体を人工物や槽(ヴァット)培養の生体組織に置き換えた人間と区別する方法はない。現在、高級なアンドロイドにはこうしたボディは珍しくはないが、さらにミクの精神の面でも、チューリング登録機構が認定した限定的スイス市民権を持つ高度知能である以上は、この"物理空間のミク"を、"電脳化したり義体化した人間"と、厳密に区別する手段はないことになる。目立ちさえしなければ、仮に目立っても大概は、人間の中に溶け込むことができた。




 身支度のあと、マンションを出る。すぐ近くの"新札幌(シンサッポロ)"鉄道ステーションの高架線下を歩き、歩いて5分ほどの、メトロの駅に向かう。
 この地下の駅は、《札幌》のメトロ東西線(トーザイ・ライン)の始終点で、交通的には《札幌》の地理的中央部の"大通(オオドオリ)"まで、メトロで20分と少ししかかからない。しかし、こんな終着駅のあるような郊外──本社のある12丁目駅近くでも、"大通"のスタジオでも、"宮の森"や"円山"の高級住宅でもなく──に、かなり売れているAIアーティストのアイドルが、専用の高級ボディを置いているなどとは、誰も思わない。
 メトロの改札口を通りざまに、北海道銀行与信素子(ドウギン・クレッド・チップ)を検知器に滑らせる。勿論、このボディの電脳機能だけでも、交通料金の引き落としにわざわざこんな操作をする必要は一切ないが、できるだけ一般人のように見せるためと、それ以上に、一般人に溶け込むこうした行動を、ミク自身が習慣づけるためだ。
 ……かつては『音が静かな札幌地下鉄のゴムタイヤ』という謳い文句だったが、今は交通予算が充分でない、という以外にはゴムタイヤのままの理由がないメトロ車両の、震動と鈍い音響に、しばらく揺られる。
 20分あまりで"大通"の駅につき、ミクはそこから地上に出る。ここと、南の"ススキノ"が、しばらく前までは《札幌(サッポロ)》の中心だったというが、現在は鉄道ステーション付近とやや北側に移ってしまい、特に"ススキノ"は完全に寂れてしまっている。ミクらに関わりの深い電器店レコード店、楽器店も、いまや"大通"にはほとんど残っていない。スタジオがこの"大通"に作られたのは、当初は予算の関係で地価が安くなりつつある場所にしか作れなかったということだ。が、いまやミクのために、この周辺の音楽芸能が蘇る可能性もあった。
 "大通"の街路を歩く人々の中を見ると、ミクがアーティストとして人気を博してから、よく似たアンドロイドや全自動ロボット機器をデザインする者や、義体を使用する人間は珍しくない。そのため、"本物"のミク(CV01のAIが実際に動かしている、という意味でだが)は、そうつとめれば、その中には簡単に溶け込んでしまう。ほかに、部分的にミクの特徴をならったものを含めると、かなり頻繁に見かけられる。
 おそらくそんな一体、ミクの特徴を大雑把にカリカチュアしたような、膝より少し上の高さほどしかない縫いぐるみのような代物が、ネギを振り回しながら、傍らを通り過ぎた。